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2008年11月

シーズンイン

そんな冬を乗り越え、春本番を迎えるのです。

小生このひと冬で、一つだけいいことがありました。それは、遅かった足が、すごく速くなったことです。まあ、毎日毎日走っていると、それは誰でも早くなりますが、早くなりたいとずっと思っていたのが良かったと思います。早くなりたいと思えば、手抜きはしなくなりますからね。

それはそうと、春休みに、前年度福岡県で優勝したチームとダブルヘッダーの練習試合をしました。結果は一勝一敗だったのですが、このチームは前年のバッテリーがそのまま残っていましたので、それは、自信になりました。昨年の秋の大敗なんか、喉もと過ぎればなんとやらです。

左の本格派のピッチャーと強肩強打の二人でした。のちにピッチャーは、高校二年生の時、甲子園に出場しましたし、キャッチャーの方は、福岡の名門、Y商業に進みました。二人とも実力者です。

試合の方は、そんな結果だったのですが、小生のバッティングは、あれ以来、湿りついていました。

そんなとき、春の選抜が行われていました。投手になる夢はいまだ叶っていませんでしたから、打つ方でと思っている時、目立ちたがり屋のカッパ虫の小生の目に、飛び込んできたのが、東海大相模高校の原選手でした、そう今のジャイアンツの監督です。

カッコ良かったですよ。こうなれば、またマネです。一回りも二回りも大きく見える構えでしたから、マネが完成した時は、小生も5番から4番バッターへと昇格していました。

教訓 芸は身を助ける!

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来年に向けて

2勝一敗でこのシーズンを終えましたが、あまりにもこの一敗は小生もチームにも、大きなものでした。こんな練習じゃ、このままでは、あのチームには、遠く及ばない。ショックは大きかったです。

そんなチームをよそ目に、イレズミ監督は、いつもと変わらぬ練習でこの冬を越えたのです。ノック、ランニング、冬だというのに、全く変わりませんでした。

雨が降れば、校舎内を走るのですが、一つユニークなと言おうか、恐怖と言おうか、教室でノックをするのです。教室って前後に10メートルぐらいですよね、前の教壇のところから、後ろの黒板のところに向かってノックです。

なんでも、ボールを怖がらないようにするということと、反射神経を鍛える練習とか言っちゃってました。

この至近距離から打たれるんですから、相当怖いです。もちろん手抜きなどしませんからね。取り損なうと後ろの黒板が割れるんです。しかし、割れようがお構いなし、さすが、ヤーさんです。

それから、雪なんか積もっちゃうと大変です(北九州は日本海に面しているので冬は結構寒いし、雪も降ります)裸足で雪の上の練習になるからです。雪の上でノックを受けても、実戦では、何も役に立ちませんよね。全員ノーエラーノックなんか始めちゃうんです。そう全員がエラーをしないで捕れるまでやるあれです。

捕るどころか、足の冷たさで立っていられないのです。イレズミ監督からしてみれば、根性を鍛えているんでしょうけど、小生は、こういう根性を鍛える練習が大嫌いというより、根性という言葉が大嫌いでした。

教訓 根性で野球は上手くならない!

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続・折れたバット

小生の中学時代は、父が病気になり、それが元で八百屋が傾きかけていました。

そんな時、また野球を始めたのです。野球は、タダではできません。ユニフォーム、スパイク、グラブ、バット、ストッキング、ソックス、帽子など、意外とお金がかかるのです。

それをまた家計の苦しい折にお願いしたのです。その時、父はやはり野球が好きだったんですね、「今度は辞めないで頑張りなさい」と、自らスポーツショップに小生を連れて行って道具を買ってくれたのです。

実はバットは、もう金属バットをクラブで所有していましたから、本当はいらなかったのですが、素振り用にと買ってくれました。

丁度こんな時でした、父の弟、小生の叔父さんが訪ねてきたのは、小生に向かって「また野球始めるのか?今、八百屋が大変なのはわかっているのか?」と大説教です。「野球なんかやらないで、八百屋を手伝うのが先じゃないのか?」「お父さん、お母さんは、きゅうり一本売っていくらになるかわかってるのか、そのためにどれだけの人に『ありがとうございました』と頭を下げているか」どうやら、野球の道具を買ってもらったことに、怒り心頭だったのです。

この言葉は、今でも小生の胸に残っています。特に「きゅうり一本売っていくらになるか」が。確かに、一本売って、当時十円ぐらいの儲けでしょう、そして頭を下げるわけですから、八百屋の仕事、客商売は大変だなあと思いました。それと同時に、父から買ってもらった野球道具への有り難味、愛着は計り知れなくなっていました。

話は、戻りますが、そんなバットが折れたのです。連続ヒットが止まったことより、バットが折れたことの方がショックでした。

そこまで十割打たしてくれたのは、父母への感謝からだったのかもしれません。

教訓 野球はタダではできない!

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父が退院

父は、半年ほどで退院してきました、胸の方はよくなったのですが、体の方は相変わらず弱かったですね。

でも、何はともあれ、貧しいながらもまた家族4人の生活が戻ってきました、それを一番喜んだのは、やはり母でした。

男手なしに八百屋という商いが成り立つわけありません。同業者に仕入れを頼んでいましたから、本当に母は、肩身の狭い思いで、毎日を送っていたのでしょう。

父が帰ってきた日、小生は生まれて初めて、母の涙を見ました。

あんなに勝気な母が涙を見せるなんて、やはり男は必要なんだと思いました。父も母に申し訳ない気持ちもあったのでしょう、以前よりは、店に出てる時間が多くなりました。

このとき小生も帰宅クラブでしたから、よく店を閉める時間に手伝いに行ってました。

そうそう、父が入院している間に買ってもらった自転車、実は父には内緒だったのです。

父はもちろん自動車の免許を持っていましたから、小生が小学生のころから自転車は絶対に駄目だとよく言っていました。

八幡という町は、路面電車も走る交通量も多い、おまけに坂も多いんです。だから、自分が運転していて、自転車が危険だということ身をもって知っていましたからうるさかったですね。

だから、自転車も父に見つからないように隣の物置小屋に隠していました。しかし、見つかったのです。親父の配達途中に。

母は、烈火のように怒られていました、次いで父の怒りは、こちらに向いたのですが、母が、昔の自分たちの境遇(父も母も貧乏だったこと)を持ち出し、この子たちは人並みに育てたいと懇願したのです。それとこれとは、ちょいと話は違うのですが、父はそれ以上なにも言わなくなっていました。この父の入院を機に父と母の力関係が逆転したように思います。

教訓 九州男児は本当は弱い!

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母親

父が入院して、我が家の家計は、傾いていました。

そんな時、母が買ってくれたものがあります。自転車とステレオです。

父も母も幼いころから貧乏な家庭に育って、二人とも中学出で、小生が小さい時から、「ちゃんと勉強して大学まで出るんだよ」と父と母に言われたものです。そんな父と母でしたから、人並み以上に小生と弟には、不自由をさせたくなかったのでしょう。

それで、まず自転車を買ってくれたのです。

小生の小学校は、自転車事故で亡くなった人がいたので、自転車禁止でした。それで中学生に入るとこぞって自転車を買ってもらいだしたのです。みんなが乗り出したので、そりゃ小生もほしくなります。しかしこういう状態では、切りだせませんでした。

そんなある日、母が、月賦専門の百貨店で自転車を買ってくれたのです。現金では買えなかったのでしょう。今でも覚えています、ナショナルの自転車でした。

今でこそ、ナショナルの自転車は珍しくないのですが、その当時は珍しかったです。だから、友達からも白い目で見られました。

それで言うと、ステレオはもっとひどかったです。何とブラザー製です。ブラザーと言うとミシン屋さんですからね。これは、ひどくバカにされました。このステレオもその月賦専門の店でした。

自分は、いいんです、少々バカにされても、でも、こんな苦しい生活の中で、ひねり出して買ってくれた母を馬鹿にされているようで、頭にきてよくケンカをしましたね。

そのブラザーのステレオは、今まだ小生の自宅の部屋に置いています。今でもこのステレオを見ると涙が出ますからね。

教訓 母に感謝し過ぎるということはない!

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父の病気

バットの話をする前に両親の話をさせて頂きます。

小生の父は、中学を卒業後、丁稚奉公のたたき上げで、八百屋の店を持てるようになった苦労人です。

小生が小学生に上がるぐらいまでは、5人の従業員を使って手広く八百屋をやっていたのですが、八幡製鉄の不況も手伝って、夫婦二人だけで店を切り盛りするようになりました。

もともと体が強くなかった父は、その頃から、腎臓が悪くなり、入退院を繰り返すようになります。

朝仕入れが終わると家に帰って体を休め、夕方の忙しい時間帯に店に出るという毎日でした。その間、母は、一人で店を守ってました。

そんな店の状態は、決していい方向には向きません。料理屋さんや料亭など、高級なお得意さんは離れていきましたし、もともと坂が多い町なので、配達のお客さんも減っていきました。

そうなると、生活はきつくなります。

そして、小生が中学一年の時でした、父が肺を患ったのです。もちろん伝染病なので八百屋に立つわけにいきません。入院です。

八百屋で一番大事仕事それは、仕入れです。その仕入れができなくなってしまったのです。なるべく安くせり落として売る、その差額が儲けです。

母は、セリの資格を持っていないので、近くの同業者に頼んで、仕入れてもらうことにしたのですが、今まで通り、品物を店で待ってるわけにはいきませんから、朝早くからその同業者のお手伝いで市場に出るようになりました。

店に戻っても、自分で売値を決め、陳列して、一日店に立って、一人で店を閉めて帰ってくるんです。もちろんそこから小生と弟の食事を作るわけですから、今考えると本当に強い母でした。

教訓 母は強い、女は強い!

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バットが折れた

新チームになって二戦二勝、おまけに十割ですからね、こんなものなのかと野球をなめ始めていました。

それは、監督も同じだったと思います。自分の指導方針にも手ごたえを感じていたのでしょう。11月も押し詰まった頃、また練習試合を組んだのです。

こんなに寒い時期に何のための試合なのか?疑問でした。

おまけに、そのチームのピッチャーの球の速いこと、過去の二人のピッチャーとは、ものが違うと一目でわかりました。

実はこのチームは、翌年の春の大会を制するんですが、ピッチャーと言い、守備と言い本当にいいチームでした。

話は、飛びますが、次の年の夏、このピッチャーと小生と、また後で出てくるんですが、小学生の時出会ったM(のち阪急で活躍する)の三人が『三羽ガラス』として騒がれるのです。その話は、またいずれ。

そして、試合が始まったのです、小生はまた5番キャッチャー、4番のエースが左中間に二塁打を放ち、小生ちょいと振り遅れたのですが、右中間に二塁打、たまたまの感は、ありましたがこれで、6打数6安打、しかしここから小生のチームは、完璧に抑えられて1対7で負けるのです。

上には上がいるんだなと感じましたが、小生は、このゲームの途中、すごくショックなことが起きました。それは、二打席目の打席に入るとき、自分のバットが折れていたことに気づいたのです。球の速さに少し詰まっただけなのに、結局三打数一安打、二打席目から金属バットを持ったのですが、カスリもしなかったです。

小生この折れたバットには特別な思いがあったのです。

教訓 強い相手を知れ!

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はじめての軟式野球試合

ちょうど野球部に入って一月ぐらいが過ぎ、練習試合をやることになったんです。今の中学校だと土日のたびに練習試合を行っていますが、小生の時代は少なかったですね。

キャッチャーというポジションにも慣れていませんでしたし、前にも書きましたが、バッティング練習もなしで、試合になるのかなと思っていました。

驚いたのは、小生の打順です。上手投げの球を思い切り打ったこともないのに、5番ですよ。

しかし、これが打てたんです。相手は左のオーバーハンドでした、その一打席目、レフトオーバーの二塁打、100メートル近く飛んでいたのですが、足が遅かったから、三塁タッチアウト、だから記録は二塁打だったんです。

二打席目も、全く同じくらいのレフトオーバー、本当に驚きました。

三打席目は、敬遠でした。初の試合で、二打席二安打、二二塁打。これは出来すぎです。試合ももちろん勝ちました。

気を良くした監督は、次の週も試合を組みました。相手は、この夏、区を制したK中学、この試合でも、小生、キャッチャーで5番で出場して、三打数三安打、確かセンター前に三本打ちました。その三本で一打点ずつ挙げ、三打点。三対零の完封勝ちでした。

小生ここまで、五打数五安打の十割です。

本当にバッティング練習なんかやらなくても打てるんだと思っちゃいました。

キャッチャーの方も、わからないままサインを出しているんですが、このカウントで、この球が来たらいやだろうなと、自分に当てはめてリードしてました。

またまた気を良くしちゃったのは、もちろん監督です。

教訓 無心でやれば、集中力が出る!

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続・イレズミ監督

三回目のケツ割りを嘆くというより、甲子園への道が遠くなるなと思ってました。

しかし、これがやめられなくなるのです。

その刺青監督から直々に、「キャッチャーをやれ」と、言われたのです。そして、「キャッチャーも、大事なポジションなんだから、チャンとやれよ」だもん、勘弁してくれという感じでした。

そこまで言われたら断れないですよ。第一怖いですよ。ボコボコを見てますからね。

それと同じ学年の部員から、引きとめられました。一緒に三年生の成績を抜こうと言われ、それは、強いて言へば甲子園に少しでも近い(強い高校)学校へ入るためのデモンストレーションにもなると、退部は何とか思い留まりました。

しかし、ここからが大変でした。思ったとおり、刺青監督は、全く野球音痴だったのです。

バッティング練習はいらない、トスバッティングをしとけばいい、ピッチング練習もいらないなど、後、ノックのとき、バットを持つ手が逆なんです。よく打てるなと思ってました。

こんな具合ですから、不安でしたよ。

野球のことも心配でしたけど、暴力の方も怖かったです。こんなことがありました、小生歯磨きがあまり好きではなかったので、虫歯が多く、歯医者に通ったんですよ。そしたら「どうして歯医者なんか行くのか」と言われて、ボコボコ。それでなくとも虫歯で痛いのに、その上から殴られましたからね。まあ、殴られるのは日常茶飯事、誰かがやられてました。

あと面白かったのが、監督の着替えのとき。部室で着替えるのですが、窓があるんです。その窓を一年生にタオルで塞がせるんですよ。そう他の生徒に刺青を見せないために、でも学校中みんな知ってましたけどね。

教訓 やくざは本当に殴るもんです!

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イレズミ監督

小生が正式に野球部に入部したのが、九月になってからだったと思います。

ちょうど時期を同じくして、空白だった監督も就任してきたのです。

その人は、先生ではなく、一年生部員の父兄だったのですが、何と背中には見事な刺青があり、間違いなく、そっち系の方でした。まあ、そういう町で育っていましたから、刺青には驚かなかったのですが、その方が野球を知っているのか?と不安になりました。

そしてその予感は的中するのです。入部して間もなく、グランドに引退した三年生が教えに来てくれたんです。ちなみに彼ら三年生は、この夏、区で準優勝して、市の大会でも三位に入っていました。監督もいないチームで。

ちょうどその日に限って、その刺青監督は遅れてまだ来ていなかったのです。

そこで、三年生たちが勝手に守備決めを始めたんです。

小生はピッチャーに指名され、ポジションについて、投球練習を始めた時でした、そこに刺青監督が登場したのです。

その時の形相はすごかったです。「お前たち何勝手なことしてるんだ。こっちにきて並べ」三年生を横に並べて、一人一人ボコボコです。歯が折れたり、口の中を切ったりで、血まみれの人もいました。

そして、小生を捕まえて、「こいつは二回もケツ割ってるんだぞ、そんな奴に大事なピッチャーを任せられるか。またいつ辞めるか分からないしな」と、ケンもほろろにけなされてしまいました。

これで、エースになる夢は一旦、ついえるのです。小生、三回目のケツ割りを覚悟しました。

教訓 世の中そんなに甘くはない!

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野球部への誘い

小生が甲子園を目指して、壁相手に硬式ボールを投げ始めて一か月ぐらいたったでしょうか?ちょうどわが中学の野球部も三年生が引退をして、新チームの練習が始まっていました。

そんな時だったと思います、小生に野球部からの誘いがあったのは。実は、この新チームには、ピッチャーがいなかったのです。

なんでも、引退した三年生が、グランドの片隅で一人投げている小生に白羽の矢を立てたらしいのです。

とは言っても、一回野球部を辞めていますし、それより何より、ピッチャーの経験など、一度もないのですから、驚いたのは、小生自身です。

余程、マネするのがウマかったんですね(銚子商業の土屋投手)。

でも、何はともあれ、元来が目立ちたがり屋のカッパ虫が、この誘いに乗らない訳がありません。高校に行って野球をやるにしても、中学で野球部の実績もないよりは、あった方がいいに決まってますしね。

ここで、少々小生の自慢を。

小生、中学に入ってから、体も大きくなり、この時点でもう180センチ近かったと思います。それと、バレーボールのことは書きましたが、ハンドボールやソフトボールなどのクラスマッチでは、図抜けて活躍できるぐらいまで、運動能力がアップしてきたのです。

このあたりの球技は、リズム感ですから、そこが良くなってきたんだと思います。

しかし、もともと走るのが嫌いだったので、足だけは遅かったですね。

だから、野球部に入ってもやっていける自信は、ありました。

しかし、そんな野球部に、予期せぬことが起きていたのです。

教訓 野球は、マネとリズムです

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