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2009年1月

野球部入部

野球部入部は、本当に気乗りのしない第二の高校生活の始まりになりました。

だって放課後、またキツイ練習が毎日毎日待っているんですから。というのは、このT商業高校も甲子園を狙える位置にあるチームなのです。

練習も他のクラブとは、当然力の入れようが違います。もちろん休みなんかありません。奈良の高校と違うのは、寮ではなく、毎日家に帰れることぐらいです。

こうして、また野球漬けの日々が始まりました。

それでも、最初の方はまだ良かったのです。奈良のT高校のセレクションに合格して行きましたから、みんなの目も、一目置いてくれていました。

監督も投手として随分期待してくれていましたから、「春の大会から、投げてもらうよ」と言ってくれていました。

しかし、奈良のT高校の一日目で、小生は投手を諦めてからこの方、一回としてピッチング練習はもとより、投手の練習は、やっていません。初めの何日かは、そりゃボールは走りますよ、肩が軽くてショウガナイのですから。しかし、一週間も経てば、肩は張って来るから、スピードは落ちるし、コントロールも定まりません。

今度は、バッティングです。

こちらは、奈良の高校で修正していたタイミングの取り方がまだ完全では、ありませんから、打てるわけもありません。

こうして、小生の化けの皮は、あっという間に剥がれてしまったのです。

でも、監督さんは、中学時代から目をかけてくれていましたから、小生の素材は認めてくれていたと思います。だから「時間をかけて、作っていけばいい」と言ってくれていました。でも、小生に決定的な罰が当たるのです。

教訓 化けの皮は、必ず剥がれる!

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T商業入学

ぶっつけ本番で臨んだT商業高校の入学試験でしたが、目出度く合格しました。

実家の八百屋を将来引き継ぐためにも、いい選択だったと思いましたし、両親も喜んでくれました。

しかし、この合格には、とんでもない裏があったのです。

それは、後で聞いた話ですが、小生の受験を知って、野球部の監督が、手心を加えていたというのです。

そんな事とは夢にも思わない小生は、入学したら、もともと好きだったバレー部でも入って、ノンビリやろうと思ってました。

それが、いきなり野球部の監督からの呼び出しです。奈良の高校に進まなかったら、もともとこの高校の野球部に入っていたはずだったのですが、野球が嫌で奈良の高校を辞めたのですから、もちろん野球などやるつもりはありません。

それに、あろうことか、両親まで野球部入部を勧めるのです。

しかし、小生は楽な高校生活を望んでいましたし、そして何より、両親のために、八百屋の手伝いもしなければと思っていましたから、頑なに入部を拒否しました。

それでも、何回か監督から電話がかかるのです。

やはり最後は、母でした。「八百屋の手伝いなんか、逃げ口上でしょう。野球から逃げてどうするの、誘ってくれるうちが花だよ、もう一回やってみなさい」自分の心を見透かしたような母の一言でした。

でも、この言葉がなければ、小生と野球の縁はここで切れていたでしょう。

そして、プロ野球の夢も!

教訓 逃げようと思えば思うほど、相手は追って来る!

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これからの進路

高校生活にオサラバして、九州に帰ったのはいいのですが、これからのことは全く考えてもいませんでした。

自分で高校を辞めたのですから、もう一度行き直すという選択は小生にはもちろんありません。それで、まず考えたことは、八百屋を継ぐということでした。

とは言っても、このまま八百屋になるのもと考え、両親に定時制の高校に行きながら八百屋を手伝いたいと言ったのです。

父親は満更でもなかったのですが、母親は大反対です。

前にも書きましたが、小生の両親は、どちらも貧しい家庭で育っていましたから、中学しか出れなかったのです。それで、小生は小さい時から、大学までとよく言われていたぐらいです。

そう云う母の願いもあって全日の高校を目指すことになったのです。そうは言っても、退学したのが、1月の終わりです。新しい高校と言っても、受験をしなければいけません。まして、野球で試験を免除とまではいかなくても、下駄をはかせてくれれば別ですが、この一年は、野球漬けの毎日で、ほとんど勉強という勉強はやっていません、正直、受験して通る高校はかなり下のランクでした。

それで中学時代の担任に相談したのですが、去年の実力だと大丈夫な高校をいくつか挙げてもらいました。その中に国立高専と、元々行こうと思っていた、T商業高校がありました。それでこの二校を受験することに決めました。

国立高専の方は、全く受験勉強をしないまま、受けたのですが、案の定、お陀仏でした。

それで、もうT商業高校しか選択肢がなくなったのです。

教訓 親は決して子供を見捨てない!

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退学

小生が寮から逃げ出したのを知っていたのは、親友のAだけでした。

その日、京都から新幹線に乗って九州に戻ろうとしたのですが、もしAが喋ったら、京都駅で捕獲されるんではないかと心配で、船で帰ることにしたのです。

大阪に出て、神戸からフェリーで九州に向かいました。

神戸から船に乗るとき、家に電話しました、もちろん、母は、奈良に戻りなさいの一点張りです。でも父は、とりあえず帰ってきなさいと言ってくれました。

それと中学時代の親友にも電話をしました。親友二人は、小倉のフェリー乗り場まで学校を休んで迎えに来てくれてました。持つべきものは友です。ケツを割って逃げ出してきた情けない男を迎えてくれるんですから。

家に帰って、両親と話し合いました、それこそ毎日毎日。どうしても戻ってほしい母と、一回言い出したら聞かない根性無しの小生と、どこまでも話は平行線でした。父はと言うと、もう諦めていました。元々父は、小生に八百屋を継いでほしいと内心思っていたからです。

そして一月の終わりでした、ついに退学という形で、T高校を後にしたのです。

学校と寮にあいさつした後、T高校の話を持ってきてくれた叔父さんは、小生に「いろんな方の力があってこの学校に進学できた、それをお前裏切ったんだぞ」この言葉はこたえました。そしてリアカーを借りてきて、寮にあった荷物を駅まで自分の力で運べと言われました。恥をかきなさいと言うんです。2キロある道のりを人の目にさらされながら、小生はリヤカーを引きました。

内心は、もうこれで野球なんかやらなくていいんだとホッとしていたように思います。

教訓 人に迷惑かけたら、そのツケは必ず来る!

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脱走

この牛乳事件をさかえに小生は、高校を辞めることを考え出したのです。

また、この頃、親戚の従兄から、小生の父が郵便局でお金を借りていたと聞いていました。

確かに、学費から寮費は、うちの家計では賄い切れなかったのです。でもそれは、この高校に入る時からある程度わかってはいたのですが・・・。

そして、年も暮れ、正月休みを迎えるのです。

12月30日九州に帰省し、明けて4日までの束の間の休みでした。その数日間、家族水入らずで過ごす正月は、格別でした。

予定どおり奈良には戻ったのですが、久しぶりの家族との再会で里ごころがついたのは事実です。

そして次の日から、何事も変わらないまた冬の練習が再開されました。

しかし、小生の心は、もう決まっていたのかもしれません。

寮でもっとも中の良かった、同じ日にセレクションを受けたAに相談を持ちかけたのです。彼は、もう甲子園に出ることなど眼中になく、高校を卒業できればいいじゃないかと小生を止めてくれたのです。でもそんな彼は、二年後甲子園のマウンドに上がるんです、運命は本当にわかりません。

そして忘れもしない1月の6日、練習終りで自転車で奈良駅に向かって脱走をするのです。Aは、小生を止めるため、ずっと追いかけてきましたが、途中で諦めたみたいです。

でも、脱走の本当のところは、家の経済的なことではなかったと思います。この環境で野球をやっていく自信を失っていたのだと思います。

大きな大きな三度目のケツ割りでした。

教訓 たかが二年半の辛抱じゃないか!

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牛乳事件

冬の練習真っ只中、小生の進路を変える事件が起きました。

子供のころから、全く牛乳嫌いだったのですが、この冬の練習が始まる頃、母が、仕送りに上乗せして、牛乳代を送ってくれるようになっていたのです。栄養のことを考えてのことだったんでしょうが。

牛乳は、寮にある冷蔵庫に届けられているのですが、ある日、三年生が小生の牛乳を勝手に飲んでいたのです。それまでにも、牛乳がなくなっていたことはあったのですが、目撃してしまったのです。

たかが牛乳なのですが、小生にとってはそうはいきません。九州にいる母が、生活は決して楽ではないのに、小生のために余分に仕送りを増やして買ってくれた牛乳です。

小生その三年生に文句を言いました。

その三年生は、小生をなんだその態度は、ぐらいの目で睨みつけました。

そして、案の定説教です。

これも連帯責任ということで、一年生全員です。小生、「このことは自分の問題だから、他の一年は関係がありません」と訴えたのですが、聞き入れてもらえません。

しょうがないから、この時、自分の家の商売、父親の病気のこと、うちがそんなに裕福でないことを涙ながらに訴えました。

そんな小生の涙の訴えは、一様聞き入れられたのですが、このことが原因でここに居づらくなったのは事実です。

だって、甲子園常連校に進学させれる家庭は、ある程度余裕のあるお宅なんです。小生の話なんか本当は理解できなかったと思います。

教訓 貧乏人を馬鹿にするな!

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冬の練習

この秋の大会、母校は近畿大会に優勝して、来年の選抜大会出場をほぼ手中におさめ、いよいよ冬の練習に突入です。

高校に入った時から、T高校は、夏より冬のがきついと聞いていましたので、覚悟はしていましたが、聞きしに勝る練習量でした。ひと冬超えると、体が一回り大きくなるのは当たり前です。

まず、ボールを扱う練習は一切無しです。腰に5キロの砂袋をつけ、とにかく基礎体力のアップです。

ランニング、ダッシュに始まり、ジャンプ、腕立て、腹筋、背筋など地味な練習を4時から8時までみっちり4時間、ボールを使っていた時と同じ時間やるわけですから、こりゃ辛い。

11月半ばに始まった練習を明けて、2月まで続けるのですから。今でこそ、筋力トレーニングが全盛ですが、この時代にこれだけのハードなパワーアップを図っての練習をする高校は、おそらく稀でしょう。

来る日も来る日も、反復練習。たいがいイヤになりました。

特に一番いやなのは、最後の50メートル勝ち抜けダッシュ。体がクタクタになってる状態で、最後一人になるまで、競争を行うのです。当時部員が、三年生が引退しても70人ぐらいはいましたから、もういじめです。二年生なんかやはり昨年ひと冬超えているので、タフなんですよ、最後は、何人かの一年生で醜い競争です。

まるで陸上部の練習でしたね。

教訓 最後は体に力のある人間が勝つ!

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私の恩人

こんなどん底の精神状態から立ち直れたのは、あるコーチのおかげです。

当時T大学の三回生で、野球寮に住み込みで、野球部のコーチをして下さっていたHさんです。

このコーチのT高校のレギュラーとして現役時代甲子園の土を踏んでいるのですが、正しく努力の人で、その努力ぶりが、T高校野球部の伝説として残っていました。

それは、現役時代、トレーニングの時間になると、そのコーチは、ローソク一本持って、火葬場に行き、そのローソクが消えるまで素振りをしていたというんです。

そんなコーチは、コーチとしても一本筋の通った人で、弱い者いじめする上級生たちを容赦なく叱りつけていたし、我々一年生でも要領のイイやつは目の敵にしてましたね。

まじめにやっている奴には優しいけど、サボってるやつ、手抜きしてるやつには本当に厳しかったです。実は、小生を走らしたのも、このコーチでした。

そして、野球自体がイヤになっていたこの頃、このコーチからマンツウマンで指導を受けるのです。

まずは、全く打てなくなったバッティングです。毎晩毎晩、小生にティーバッティングのボールを上げてくれるのです。手のマメは、何重にも破れ、手は痛くてしょうがないのですが、そんなことも言ってられません。

でも、この秋は、本当にバットを振りました。その甲斐あって、紅白戦で打球が外野まで飛んだのです。平凡なライトフライだったのですが、どんなにうれしかったかしれません。

まだ、光明は見えてませんでしたが、練習すればなんとかなるという実感を掴んだ感じでした。

教訓 人生は出会いです!

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夏の練習

九州で二週間もずる休みをして奈良に帰ったのは、もう夏の県大会の準決勝あたりだったと思います。

何度も書きますが、全く打てなくなったバッティングと寮での先輩たちの冷ややかな目、もうほとんど、甲子園どころか、何のために、奈良まで来たんだろうと、もうほとんどノイローゼ気味だったようです。

そんな気持ちを抱えたまま、戻ったのですが、レギュラー組を除いたチームは、もう新チームに向けて夏の練習をスタートしていました。

そして、小生のずる休みのツケが回ってくるのです。

帰ってきた小生を待っていたのは、ただグランドの外周をひたすら走る一人ランニング。

監督やコーチにも見放された格好で、来る日も来る日も、キャッチボールもやらせてもらえませんでした。

そりゃそうですよ、みんなが練習していた時、小生は遊んでいたのですから、自業自得というやつです。

参加できたのは、最後のベースランニングだけ。結局、一日中走っていました。

奈良の夏は、盆地なので、風がなくすごく熱いんです。最後のベースランニングの時に何回か倒れたのを覚えています。その度に水を掛けられるのですが、その水を口を開けて飲んでいました。

そんなランニングの日々がお盆ぐらいまで続きましたか、この時ばかりは、脱走を本気で考えましたね。

教訓 ツケは自分で払うしかない!

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続ホームシック

六月も終わろうかという時期だったと思いますが、寮で結膜炎が流行りました。小生もかからないかなと思ってました、というより願ってました。というのも、新潟から来てた寮生が、帰宅を許されたのです。何故かというと、月が変われば、甲子園に向けた奈良県大会が始まるからです。そんな大事な時期の手当てです。

バッティングは、相変わらず、ヒッチを辞めてから前に飛んでくれないし、二年生からのシカトは続いていましたから、毎日毎日が真っ暗な日々でした。

そんな時のこの結膜炎騒動です。何とか自分にもうつらないかと、今考えると恥ずかしいかな、グランドの土を右目にすりこんだんです。左目にしなかったのは、左目は、右バッターの生命線だからでした、だから今でも右目の視力が悪いのですが。情けない。

でも元を正せば、ずうっとホームシック状態は続いていたのだと思います。

結局、努力もむなしく、小生の結膜炎作戦は失敗に終わったのです。

そうは言っても、どうしても、九州に帰京することがあきらめきれずに、色々と作戦を練りました。

一年生によく親族の法事だと言って帰郷する奴がいたので、この手だと思い、ちょうど祖父の三回忌と重なっていましたから、作戦実行です。

後ろめたい気持ちもありましたが、飛んで九州に帰ったことを覚えています。

そして、すぐに奈良に戻るつもりでいたのですが、ずるずると二週間も滞在するのです。

その間、何をしていたか?全く覚えていないのですが、余程帰りたくなかったのでしょう。

このツケは、このあとしっかり払わせられるのですが!

教訓 嘘はやはり嘘なんです!

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説教

今でこそ、暴力事件が表沙汰になると、高野連からきついお仕置きがありますが、小生の時代は、結構ありましたね。

挨拶、返事など、人としての基本的なことから、寮生として掃除、グランドでの整備など、一年生としてのやらなければならないことが山ほどありました。そしてこれを一人でも怠ると、連帯責任として、二年生から説教を受けるのです。

説教は、練習が終わって、寮に戻って、食事、トレーニングの終わった後、10時ぐらいから始まるのですが、正坐をして目を瞑って、二年生に今日説教に及んだ理由を一通り、愚図愚図と聞かされるのですが、これが長い、おまけに当事者であれば、手を挙げさせられる、これが又きつい、二時間で終わればいいのですが、夜中の一時二時と言う時もざらでした。

納得がいかなかったのは、三年生には、挨拶と返事しかしてはいけないというものでした。まるで軍隊ですよ。三年生の中には、一年を奴隷のようにこき使う人もいて、「俺が寝るまで、マッサージをしろ」とか、小生はなかったのですが、夜中まで毎日マッサージをさせられていた一年がいました。

説教で叩かれたこともありました。そのことを一年の誰かが親に言っちゃって、親から先生に伝わったのです。そのことで二年生がこっぴどく先生からやられまして、そうなると逆恨みです。

疑われたのは、小生でした。とんだ濡れ衣です。小生が親に心配かけること言えるわけないのに、そして少々の殴る蹴るは、イレズミ監督に散々やられていましたから。

ここから、二年生に無視されるようになるのです。

教訓 理不尽なことも世の中たくさんある!

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バッティングの欠陥

相変わらずの「ホームシック」を抱えながらも、小生、バッティングの方は、硬式ボールにも慣れ、レギュラーに交じってバッティング練習をする機会もあるほど、自分で言うのも変ですが、打つ自信は、かなり付いてきていました。

しかし、大きな落とし穴が待っていたのです。

寮で小生と同室だった、ボーイズ出身の捕手Gと夜のトレーニングでよくティバッティングをやっていました。彼は、中学時代、ボーイズリーグの日本代表捕手としてアメリカに遠征したほどの経歴を持つ選手でそれこそ、打者を見る目は、群を抜いていました。

その彼が、「お前、ヒッチしてるな」と気になることを言うのです。小生その「ヒッチ」の意味すら分からなかったのですが、どういうことかというと、簡単に言えば、手でタイミングをとっているというのです。

プロ野球で言うと、外人さんがやるアレです。そして、Gは続けるのです。「ヒッチだとタイミングが崩されやすいから、膝でとった方がいい」。タイミングを外すのに長けた捕手が言うのです。

コーチに相談に行くと、「今打ててるからいい」と言う返事でした。でも、甲子園に出てくる投手を相手にするんだから、直すなら早い方がいいと思い、手を膝に変えるぐらいそんなに難しくないであろうと簡単な気持ちで始めたのです。

しかし、これが全く打てない、タイミングが合わないのです。タイミングが合わないから、ボールが前に飛んでいかない、かと言って、ヒッチに戻すこともできなくなるのです。

今思うと、ヒッチのまま打っていたら、ピッチャーじゃなくてバッターでプロに行っていたかもしれません。それぐらい打っていたと思います。

教訓 人の言うことよりも、自分を信じて!

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甲子園で勝つための練習

入学式も終わり、両親が九州に帰った後も小生、「ホームシック」病と抱えたまま、毎日が過ぎていきました、と言っても、野球の練習は、驚きの連続でした。

それは、練習のシンドさは、当たり前ですが、その内容の深さです。所詮、小生は九州の田舎野球しか経験がないのですから、当たり前と言えば当たり前ですが、練習が理にかなってると言いますか、何故この練習をするのか?を教えてくれるのです。

たとえば、右に打てない子は使ってもらえないんです。何故か?

一つは、投手は、その7割方をアウトロー目がけて投げ込んできます、それも真っ直ぐだけではありません、変化球を交えて、このアウトロー中心にコントロールを付けるのです。

まして、甲子園に出てくるチームの投手は、スピードもコントロールも一級品です。それを引っ張ってヒットできる確率は、かなり低くなるでしょう。

もう一つは、ランナー一塁の時の右打ちの効用です。簡単に言うと、一塁ランナーがいると、一塁手がベースに就いています、すると普段の守備位置より一塁手の後方地帯が広くヒットになり易いのです。

他にも、アウトコースの見極めや、ボールを引きつけて打てるようになります。

では、右打ちの打ち方は?とこういう具合に練習が進んで行くんです。

小生は、Yコーチ(今の監督)から右打ちを教えて頂きました。今でこそ、右打ちは、当たり前ですが、この当時は珍しかったんです。Yコーチがこの春、選抜を制した広島の崇徳高校の勝因を一番から九番まで「右打ち」ができるからと言っていました、その時のキャッチャーが今早稲田の監督、応武さんです。話がちょっとそれましたが、小生この右打ちもなんとなくすぐにマスターできました。

教訓 右打ちは、近代野球の基本!

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