日記・コラム・つぶやき

業界の恩人2

生番組のオンエア当日の遅刻が何を意味するか?

それは、たかが遅刻では済まされないのです。まして当日の原稿は当日書くことになっていた作家の先生が、となると、ナレーションなしで映像が流れることになるのです。

小生それでなくても時間に遅れるルーズな人が大嫌いなのです。いくら年上の人であろうと、頭に来ていました。

結局、他の作家さんがUさんの分まで書いてくれたので事なきを得たのですが、小生腹の虫がおさまりません。

ガツーンと噛みついたのです。

それもみんながいる前でです。

慌てたのは、周りの人たちでした。みんなが「この若造なんてこと言ってんだ」みたいな顔で小生を見ていました。

その作家先生も、なんだこいつぐらいな顔でした。

番組終了後、次の週の打ち合わせをしてお開きになったのですが、小生そのUさんに呼び止められたのです。

それから赤坂の高い中華料理店に連れていかれました。

いやな感じでついていったのですが、ただ高級な中華料理をごちそうになり、老酒をしこたま飲んで、別れたのでした。

それ以来、毎週のように作家Uさんに飲みにつれて行ってもらうようになりました。どうしてでしょう?

教訓 時には怖いもの知れずでぶち当たるのもいいものです!

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業界の恩人登場

Yさんを自分が担当する番組で取れ上げられたことは、小生をこのテレビ業界で働く意思を強く固めさせることになりました。

テレビって自分の意志でこんなに人を喜ばせたり、感動させたりできるんだと思ったからです。

まして自分がお世話になったYさんのことを伝えることができたことは、本当にうれしかったですから。

しかし、そんなことは言っても小生の日々の仕事内容は、変わりませんでした。小指のない社長の運転手と暇を見つけては、番組のスタッフルームでお手伝いをする毎日です。

そんな折、この業界に入って、はたまたとんでもない恩人に出会うのです。

それは、この番組の構成作家の先生でした。

番組がスタートしたときから、知ってはいたのですが、小生ごときがそう気安く話せそうもない相手でした。

後から知ったのですが、コント作家としては、かなり名の売れた方で、この頃は、アニメの脚本家としても脚光をあびていたそうです。

しかし、その先生が、オンエアの当日遅刻してきたのです。その先生は、当日朝からのナレーション書きの仕事があったので、遅刻は番組に穴をあける事態にもなりかねないのです。

そこで小生、先生に食って掛かったのです。

教訓 時にはまっすぐにぶつからなければいけません!

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恩人Yさんの一軍登板

早速大阪に乗り込んだ小生とディレクターは、その日からの三連戦で、Yさんが登板することを祈りました。あわよくば、一勝してくれれば言うことないのですが!

藤井寺球場に着いた小生たちは、球団の広報の人に挨拶をし、取材の意図を伝えました。「出来れば、この取材中に登板してもらえば・・・」

テレビのプレッシャーというやつです。普段のニュース枠だとジャイアンツ戦を主にやっていた時代です。まして、パリーグは、それこそ試合結果しか出ないからこういう取材は、人気のない球団は、大歓迎なのです。

とはいっても試合の流れを見ながらの登板です。こちらはそれを祈るばかりです。

そうこうしていると選手が球場に入ってきました。そして恩人のYさんとの二年ぶりの再会です。

一緒にやっていた時より、体が一回り大きくなっているように感じたことを覚えています。

そして、試合前の練習が始まりました。やはり一軍に上がった自身がにじみ出ていましたし、何はともあれ本当に野球を楽しそうにやっていました。

そして一日目のゲームが始まったのですが、確か雨で途中ノーゲームになったと思いました。この日は、不発に終わりました。

教訓 初志貫徹の意志の強さは、必ずや実を結ぶのです!

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恩人Yさんへの恩返し2

小生が携わったスポーツ番組の制作予算が少ないのは、分かったいました。4月に始まって、素材のほとんどは、局が放送したものを借りてきて再構成して流していましたし、ロケといってもほとんど都内でした。

しかし、恩人のYさんは、関西の球団です。まして、一軍に上がって、すぐに一勝ということも考えられます。だから、なるべく早く、取材に行かなくてはいけなかったのです。

小生、意を決して午後出勤してきたプロデューサーを捕まえ、直談判です。

とりあえず伝えることは、「練習生から退団、テスト入団、一軍昇格」この波乱のドキュメントをということでした。

しかし、気合いを入れて説明した割には、「だから、すぐ行かなきゃ間に合わないんだろう」といとも簡単にOKだったんです。

そしてこう続けたのです。「この番組は、そういう話をやらなければいけないんだ、こんな話はよそではやらないからな」

小生は、この時この会社に入って良かったと思いましたし、Fプロデューサーと出会ってよかったと思いました。

確か次の日には、小生とディレクターは大阪に取材に向かったのです。それも二泊三日という好条件で。

教訓 物事あったって砕けるだけではありません!

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恩人Yさんへの恩返し

ベンツの運転手に毎日憂鬱な日々を送っていましたが、スポーツ番組は、相変わらず続けていました。

そんなある日、小生の人生の恩人、Yさんからの突然の電話が、スタッフルームにあったんです。

Yさんとは、前にも書きましたが、小生がプロ野球選手の時、肩を壊して破れかぶれになる自分を助けてくれた人です。

その電話は、そのYさんが一軍に上がったとの一報でした。

Yさんは、小生と一緒にS球団を去って、大阪の方のK球団のテストを受けて合格していたのです。

そのYさんが夢にまで見た一軍に上がったとの連絡に小生わがことのようにうれしかったことを覚えています。

「俺には、野球しかない」といつも言ってたYさんが、肩を壊し、練習生そして自由契約、入団テストといばらの道から勝ち取った一軍切符です。

小生もなんとか応援しなければと、スタッフルームで騒いでいました。その時確か、大嫌いなSディレクター、そうです小生をいじめたSさんです、彼が、「この番組で取り上げよう」と言ってくれたのです。

とはいっても予算の少ない番組でしたから、大阪までのロケをプロデューサーが許可してくれるかどうか?そして、小生プロデューサーと掛け合うのです。

教訓 運命の人とは、やはり繋がっているのです!

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ベンツの運転手2

そのベンツの運転手ですが、どこに行くかというと、昼間は金貸しのための資金繰りで、横浜にはよく行ってました。

しかし、メインは夜です。毎夜毎夜、赤坂や銀座での飲みが多かったですね。いつも女連れで、二三軒はハシゴしていました。

その間、小生はというと、もちろんご相伴にあづかれるわけもなく、路上駐車をして、ただひたすら待つのみです。

大体、深夜1時2時ぐらいまでですが、一番大変だったのは、タクシーの運転手さんとの場所取り争いでした。

ほとんどは、白のベンツにスーツを着た長身の小生が運転手ですから、先方のそれとわかって文句も言わないのですが、中には、業務妨害だとか、警察呼んでくるぞだの、結構ひつこい運転手さんもいました。

さすがにその気になって、相手はしませんでしたが、あまりひつこい人だとこちらが車を動かすしかありませんでした。

でも、本当に困ったことは、電車がない時間ですから、たまにベンツで家に帰ることがあるんです。

小生が当時住んでたアパートは、大家さんが小生が昔、プロ野球の選手だったということを知ってて、貸して頂いてたのです。そこに持ってきて白のベンツですらね。やっぱりそういう道に進んだのかな?と勘違いされてたと思います。隣近所の目も正にそういう人を見てるように感じられました。

教訓 人は見た目で判断するものなのです!

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ベンツの運転手

小生を悩ましたもう一つの出来事ですが、それは、小指のない社長の運転手になることでした。

4月にスポーツ番組が始まったのですが、ちょうどその頃、社長のお抱え運転手が、辞めてしまったのです。その後、事務所にいた若い人たちが代わる代わる運転手を務めていたのですが、みんなスポーツ番組に何らかの形で絡みたかった人たちだったので、番組に関われないと知った彼らもみんな辞めていきました。

そこで、残っていた小生にお鉢が回ってきたのです。もともと、スポーツ番組における小生の仕事は、オンエア当日の野球解説者の羽田への送り迎えしかありませんでしたから。

正直、運転手をやりにこの業界に入ったわけではないと反発しました。しかし、 繋ぎだからとなんとか誤魔化されてやるようになったのです。

そして、ベンツです。今でこそ誰でも乗っていますが、今から30年近く前、450SELの白に乗っている人は、正にその筋の人ぐらいしかいませんでした。

そこに持ってきて185センチの長身の小生がスーツで運転手を務めるワケですから、そのものです。

こんな大きなベンツを狭い狭い赤坂の道で運転することの恐怖と言ったらなかったですね。左ハンドルが初めてでしたからね。

もし、ぶっつけでもしたら、それこそ小指がなくなるんじゃないかって思っていました。

教訓 逃げられない時は、とりあえず乗ってみる!

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その筋の人

Sさんのイジメはこれぐらいにして、この当時小生には、もう一つとてもいやのことがありました。

そもそも小生が就職した放送作家の事務所は、ある会社に間借りした格好でした。まあ間借りといっても社長は、一緒だったんですけど。

その元の会社はと言えば、お金の高利貸しをやっていました。社長はと言えば、小指がないのです、もちろんその筋の人です。車はベンツ。

小生も面接をしてくれたFさんを信じて入社したわけですが、その社長とあってビックリでした、一目でその筋の人と分かりましたから。この業界は、その筋の人が多いと聞いてはいましたが、正しくビンゴでした。

しかし、小生この社長さんから好かれてしまうのです。

まず、社長室には、社長のスーツが10着ぐらいあったのですが、小生のみそぼらしいスーツを見て、もう着ないからと、好きなのを銀座の英国屋に持って行って仕立て直してもらえというのです。

しかし、その柄は、やはりその筋の人が着そうなものばかり。さすがに遠慮しましたが・・。

そして、今度はスポーツ番組のアシスタントに自分の愛人を使えという始末。これも遠慮していただきましたが・・。

しかし、どうしても逃れられないことが起きたのです。

教訓 その筋の人に好かれたら大変です!

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ディレクターのイジメ3

初めてのテニスで打ち方も何も分からない小生を捕まえて、Sさんのシゴキが始まったのです。

書き忘れていましたけど、高校時代ラグビーをやっていたぐらいのスポーツマンなので、体の方も大きかったんです。身長180センチ、体重が80キロぐらいでしょうか。

その体から繰り出されるサービスは、それは素人では到底拾えないものでした。それを事もあろうに、いきなり小生をコートに立たせ、手加減なしに打ってくるのです。

ラケットの持ち方もわからない小生にですよ。元プロ野球選手の小生としても全く手が出ません。でも小生だから何とか危険なく立っていられたと思います。ど素人だったら、本当にけがをしたかもしれません。

結局、小生がコートに立ったのは、この時だけだったように思います。この時、二度とテニスはやらないと心に誓いました。

しかし後でわかったことですが、Sさんは、テニスのサービスを緩く打つことができなかったのでそうです。

どういうことかというと、簡単に言えば、不器用な手前力を抜いて打てないのだそうです。要は運動神経が悪いということですね。

しかし、このSさんとは、何かの縁で今に至るまで、懇意にさせて頂いています。この話はおいおい出てくると思います。

教訓 縁は奇なもの味なもの!

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ディレクターさんのイジメ

そんな怖いSさんに言われたとおり、土曜日の深夜、明日の支度(羽田に解説の方を迎えに行けるように)をして編集所へと向かいました。

オンエアの前日に何故徹夜で編集をしなければならないのか?それは、土曜日のスポーツの結果をつながなければならないからです。

たとえば、今でこそプロ野球は、土曜にデーゲームで行っていますが、この時代は、まだ高視聴率を叩き出していた巨人戦は、ゴールデンタイムのドル箱でしたから、当然試合が終わってからの作業となるのです。

そのほかのスポーツも、土曜日は目白押しで、番組もその結果を目玉に構成されていました。

だからどうしても土曜日は、ほとんど徹夜の作業になるのです。

そして小生いよいよ編集所へ向かったのです。世の中何も分からない小生でも、場の空気を考え、確かケーキを買っていったことを覚えています。

中に入ったら、予定通り?切羽詰まって作業しているディレクターさん2名とADさん2名、それと編集所のオペレーターさんがいました。

それでも前にも書いたIさんというディレクターさんが、「来なくてもいいのに、明日早く羽田なんだろう」と気を使って頂きました。

しかし、当のSさんはディレクターチェアに座り、小生の方も振り向きもせず、全くの無視です。しかし、Sさんのイジメはまだまだ続くのです。

教訓 叩かれて叩かれて強くなるのです?潰れる人の方が多いいですが

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ディレクターさんの怒り

ディレクターの大変さを書きましたが、スポーツ番組が始まってすぐこういうことがありました。

小生の番組での役割は前にも書きましたが、番組出演者の当日の羽田空港の送り迎えぐらいでしたから、そのディレクターさんは面白くなかったのでしょう。小生に、「お前はいいよな、運転手やっとけばいいんだから」といきなり絡んできました。

小生は、毎日何も分からないけど小生なりに番組の役に立つように気を使っていたつもりでしたが、そのディレクターさんには、よほど小生が気楽に見えたのでしょう。その原因をよくよく考えてみたのですが、放送の前日の土曜日は、ディレクターさんたちはいつもみんな徹夜なのです。一様ホテルを取ってはいるんですが、ほとんど使うことがないとのことでしたので、小生製作費も少なかったからホテルを取らなくてもいいですか?と伺いを立てたんです。そしたら「俺たちがどういうことしてるか?土曜の深夜編集所に来てみろよ」と言われました。もうけんか腰でした。小生の言葉不足だったかもしれませんが、どうしてそこまで言われなければいけないのかと真剣に悩みました。上司からは、番組の赤字の話を事あるごとに聞いていましたから、少しでもと思って言ったのですが・・。

そのディレクターは、もちろんSさんです。

気の弱い小生は、とりあえずSさんの言葉通り、土曜の深夜に編集所へと向かったのですが・・・。

教訓 業界は上下関係が非常に厳しいところです!

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ディレクターは大変なお仕事

番組は制作するまでがとても大変だという話を書きましたが、テレビド素人の小生が一番大変だと思ったのは、編集という作業でした。

生番組ということもあり、他のVTR収録番組よりは、少しは楽だったとは思いますが、スタジオに出すVTR編集は、毎回放送当日まで徹夜作業だったように思います。はじめは、何をやっているのか?見ていても何も分かりませんでした。何度も何度も同じ絵が繰り返されているように見受けられ、時間の割には、すごく手間のかかる作業なんだなぐらいにしか分かりませんでした。

もちろん編集作業は、ディレクターの腕のみせどころなんですが、小生昔から夜にはすごく弱いんです。学生のころも徹夜なんか一回もやったことないぐらい、深夜になると頭が全く回転しなくなるんです。それを時間に追われた緊張の中で絵をつないでいくディレクターさんには、小生本当に尊敬のまなざしでした。

しかし、小生この時何があっても、ディレクターには絶対に成れないし、なりたくないと思いました。今でも、ディレクターさんたちの手間と能力でいい番組ができると思っていますが、小生がプロデューサーになれたのは、この時の徹夜嫌いが大きく影響していると思います。

話を戻します。このスポーツ番組の編集所にて、小生いやなイジメにあうのです。

教訓 ディレクターは、徹夜覚悟の重労働!

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テレビに初めて驚いたこと

そんなこんなで、4月からのスポーツ番組がスタートしました。

はじめのうちは、小生にとっては物珍しいことばかりでした。まず驚いたことは、スタジオでした。生番組ということもあり、45分の時間内で予定していたことを消化するという、プロの仕事ぶりにビックリ、何本かのVTRを挟むんですが、タレントさんといい、スタッフの方といいなんでも時間どおりに進行してしまう、小生には、皆さんが時間の魔術師に見えました。

小生には、テレビ番組がどういう風に作られるているのか、初めての体験ばかりでしたが、その時の印象をよく覚えています。

それは、テレビは、放送までにとんでもない時間を準備に掛けるのですが、放送はあっという間に終わってしまいます。だいたい、いろんなものを作り上げれば、作り上げた後それを楽しんだり、眺めたりするものでしょう。家だって何カ月もかけて建てて、何十年と住めるわけだし、陶器だってそうでしょう。それに比べてテレビはいかんせんはかないのです。

今でもそのことには、若干のさみしさがあります。3000万円の製作費を頂いて番組を作っても、放送すれば終わりです。たとえばスタジオにセットを1000万円で組んでも収録が終わればすぐに壊してしまいます。1000万円もあれば小さいながらも家が建ちますよ。

誰かが言ってました。テレビは「夢を売るんだ」と。と言われても、この業界の初めての印象は、変えられません。

小生が貧乏性のせいかもしれませんが!

教訓 テレビのお金の使い方は、ちょっと異常です!

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アシスタントプロデューサー

まあ何はともあれ、小生のスポーツ番組配属は予定通りになりました。

そして小生のポストは、アシスタントプロデューサーでした。前にも書きましたが、プロデューサー・ディレクターの区別もついていませんでしたから、何をやっていいのか全く分からないスタートになりました。

番組作りとは、どの様なものか?毎日毎日が緊張の連続でした。四月スタートということもあり、二月・三月は打ち合わせやタレントさんのオーデションなど準備に明け暮れていました。

もちろん打ち合わせなんかにも出席するんですが、何を打ち合わせているのかちんぷんかんぷん、野球の話題はついていけるのですが、他のスポーツは全くわからないのです。ただのお茶くみが関の山でした。

そして三月も終わりになり、やっと小生の役割が見えてきました。

とはいっても、放送が日曜日のお昼からでしたので、プロ野球解説のAさん(関西在住)を日曜日の朝、自分で運転して、羽田空港まで迎えに行くことぐらいでした。

それと、スタジオで出演者の方々の衣装のタイアップ屋さんとの交渉でした。話はそれますが、そのタイアップ屋さんから一回すごい接待を受けました。赤坂にある「ざくろ」という高級レストランで食事を頂きました。昨日今日はいったばかりの小生にですよ。いろんなお金が動いてる業界なんだなと感心したことを覚えています。

教訓 野球バカは、時間がかかるんです!

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スポーツ番組

小生元々は、スポーツ番組の立ち上げのためにこの会社に入ったつもりでした。しかし、一週間経ち、二週間経ってもスポーツ番組が始まる気配がありません。

小生も何度となくFさんに聞こうとしているのですが、なかなか切り出せませんでした。そして、一月も終わる頃だったと思います。

突然、Fさんが今日番組の打ち合わせをするから、会議室の掃除をと言われました。言われるままに掃除をしたのですが、何を用意すればいいのか?どんな人が出席するのか?全く分かりませんでした。

恥ずかしい話ですが、第一プロデューサー、ディレクターという名前は聞いたことありましたが、いったい彼らが、何をやる人なのか?すら知りませんでした。

そしてその時がやってきました。まず、何やら人相の良くないすごく体の大きい人と、人の良さそうな人が現れました。それから何人かの放送作家の先生たち(事務所で面識あり)そしてFさんと小生で会議が始まりました。まずはそれぞれの紹介から始まりました。そこで人相の良くない人と、人の良さそうな人はディレクターであることが判明しました。この人相の良くない体の大きな人は、Sさん。人の良さそうな人が、Iさん。

これはまた後で書きますが、小生の第一印象って結構当たるんです。このSさんには、その後ずいぶんいじめられるんですが・・・。

何はともあれ、こうしてスポーツ番組、小生の業界はじめての番組がスタートするのです。

教訓 第一印象は大事ですよ!

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業界の裏側2

その会食のからくりですが、毎日毎日、それなりの店で、数名の飲み食い代はかなりの額になります。フグなんか行けば少なくても5万は下りません、そんなに高いものばかりではないにしても、毎日ですから、月50万以上はかかっていたと思います。

上司のF氏のポケットマネーではもちろん無理でしょう、Fさんは奥さんとお子さんの3人暮らしでしたから、給料を全部つぎ込むわけにはいかないはずです。

これは、あとからわかったことですが、どうも放送作家のギャラに手を付けていたらしいのです。

これはある作家からお聞きしたのですが、自分のギャラが支払われないことでFさんに詰め寄ったらしいのですが、その時の言い訳がまた業界らしいというか、放送作家のマネージャーらしいのですが、「悪い、渡そうと思ってタクシーに乗ったらタクシーの中に忘れちゃって!」。

その作家さんも嘘だとわかっていてもただ笑うしかなかったそうです。

ひとによっては、強く詰め寄る作家さんも多かったですね。Fさんは、そんなお金にだらしなさが出て、数年後にはこの業界から去らなければいけなくなったのです。

大きく話がズレましたが、次回は、小生のスポーツ番組の件に戻します。

教訓 業界はお金で失敗している人がすごく多いいのです!

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業界の裏側

まあ、小生の第三の就職先は、こんな感じで放送作家の事務所でスタートしたわけですが、ちょっと待って下さい。

小生は、スポーツ番組がスタートするというのでこの業界の面接をしたはずです。テレビのお仕事がしたかったワケではなく、プロ野球での経験が少しでも生きるんじゃないかと思って入ったのです。

そのあたりを、小生を入れてくれた張本人のFさんに聞くことにしたのですが、なかなかFさんと二人で会う機会がありません。Fさんの出社は、お昼の二時過ぎでしたし、一時間ぐらい電話でアポを取ったと思ったら、すぐさまテレビ局周りです。六時ぐらいに会社に戻ってくると、すぐさま赤坂の夜の街へと消えていくのです。打ち合わせと称して、作家さんやテレビ局の人たちと会食です。

小生も何回か連れて行ってもらうのですが、その席で切り出す話でもありません。話はちょっと外れますが、この毎夜行われる会食は、小生にとっては、この上のない時間でした。というのは、夕方の時間になるとFさんが「今日は何を食う?」とみんなに聞くのですが、「今の時期だとフグが旨いとか」「今日は寒いからすき焼きなんかどう?」とか、打ち合わせと称しての旨いものツアーは、貧乏人の小生にとって、業界の魅力を十分に引き付けてくれました。

偉くなったら毎日こんなものが夜な夜な食べられるようになるんだと!

しかし、この会食にはとんでもないからくりがあったのです。

教訓 業界にはからくりが付きものです!

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放送作家のお仕事

今日は、放送作家のお仕事について書きます。

初めの頃は、全くわからなかった放送作家の仕事も、日を追うようになると徐々にわかってきました。それは、もちろん作家さんたちと話すようになったこともそうですが、彼らの台本をテレビ局に届けるようになって理解できるようになりました。

どう言うことかというと、彼らの台本をテレビ局に届ける最中に、その中身を見るのです。それは、今みたいにFAXもそんなに頻繁に使われていませんでしたし、パソコンなんかはまだ影も形もない時代でしたから、原稿運びは、マネージャーの仕事の一部だったからです。

その中身は、ほとんどがテレビやラジオの司会者やパーソナリティー用の台本です。それは、素人の小生が読んでも分かり易いものでした。これを基にテレビやラジオはできているんだと分かりました。

しかし、中には番組の企画書やコントの台本は、小生には全く理解ができないものでした。

余談ですが、小生が務めた事務所の作家さんたちは業界でも超エリート集団で、日本のバラエティを支えた多くの先生が所属していました。

だから当然、バラエティの王道、コントの台本なんかががあったわけですし、頼まれる企画書も多かったんだと思います。

小生が幸せだったのは、この先生方の台本や企画書が、タダで目にすることができたこと、それを何かの機会に先生方に教えてもらえたことです。それは、小生がプロデューサーになった土台になっています。

教訓 やはり一流の人たちと出会うことです!

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放送作家

まだ初出勤して、何時間もたっていないのに、この仕事に大変は不安を感じていました。

そして午後2時頃になって小生を面接してくれたFさんが、出社してきました。Fさんは、戸惑う小生の顔を横目に、何も話しかけてもくれません。

昨日の野球の会話は、何だったのだろう?と思いながら、また、スポーツ番組があると聞いて就職したのに・・・。しかし、恐怖の電話は鳴りやみません。

そうこうしていると、ジーンズ姿の方たちが入れ替わり立ち替わり、出入りします。小生は、わけもわからず挨拶するのですが、ちゃんと挨拶を返してくれる人もいますが、ほとんどが「お前何物?」みたいな顔で見られました。そんなジーンズ姿の方たちが実は、この会社に所属している作家の先生たちだったのですが、後でわかったことですが、小生が面接に来る前から、小生のことは、ほとんどの作家の方が小生のことを聞かされていたみたいです。元プロ野球選手だという触れ込みだったそうです。

結局、野球が好きな方とそうでもない方の違いが、小生への態度に出てたようです。

しかし、そんな作家の先生たちは小生にとってまるで宇宙人みたいな方たちでした。

というのは、いい年こいた大人が、馬鹿な話ばかりしているのです、その辺の話は次回に!

教訓 はじめての世界を制するのは好奇心!

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電話の恐怖

9時から始まった仕事も11時を過ぎる頃になると、事務所の雰囲気が一転しました。

それまで掃除やらおしゃべりやら、意外とのらりくらり時間が過ぎていたのですが、いきなり電話が鳴りだしたのです。

電話の出方さえ分からない小生にとって、それは地獄の始まりでした。

放送作家の先生が30人近く所属しているのですが、その先生方の顔は勿論、名前、番組など全くわからないまま電話に出るのですから、受け答えなどできるはずもありません。

小生が一番恐れたのは、小生の受け答えで作家の先生方、会社に迷惑がかからないか?でした。

相手方の名前を聞き忘れたり、メモをとりながら聞いていたら、メモがおそ過ぎて電話を切られたり、そりゃ恐怖でした。

第一社会人としての言葉使いは皆目駄目だし、まして業界言葉は、ちんぷんかんぷん、言ってることが理解できないのです。

そして今考えると小生の恐怖の根底にあったことは、学歴コンプレックスだったように思われます。

それは、業界を知ってる知らないは関係なく、会社の人たちと普通の会話ができないことでした、新聞も読まない、本も読まないではついていけない自分に気がついたのです。

本当に野球しか知らないんだ。と思い知らされました。

教訓 仕事は自分の得意分野の方がいい!

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出社

面接の翌日から早速、赤坂にある事務所へと出社です。

仕事内容もわからないまま、満員電車に揺られて2時間、朝9時の出社は小生にとって経験したこともない苦痛そのものでした。

何はともあれ、赤坂について言われたとおりに事務所には着いたのですが、そこには、同じ年頃の男の人と女の人が一人ずつ。小生のことは、聞いていない様子、当のSさんはと、尋ねたのですが、毎日お昼の2時頃の出社だとか・・・。

とりあえず皆さんに挨拶して空いてる席に座っていました。そしてなんとなく事務所の中を眺めていたら、大きなホワイトボードに、テレビ局と番組名が書いてあるのに気がついたのです。そしてそれぞれの番組の下に名前が載っていました。

小生は、てっきり勘違いして、この会社はたくさんの番組を制作しているんだなと思ってしまったのです。

そして男の人に、聞きました。「あなたは、どんな番組を作っているのですか?」

彼は、小生の顔を見てキョトンとして、小生に教えてくれました。

かいつまんで言うと、この会社は、放送作家のマネージメントをする会社で、彼はそのマネージャーの一人ということでした。

ということは、小生もマネージャーをやらなくてはいけないのかと不安になりました。第一お山の大将だったプロ野球選手が、人のマネージャーなんかできるわけないんです。

そして間もなく小生の不安が的中するのです。

教訓 不安な時は、時間の経つのを待つ!

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合格

アイビスという喫茶店で待つこと一時間、30分遅れで、待ち人のFさんが来ました。

そしてその時になって、小生は、新しいスポーツ番組を立ち上げるのでスタッフを探してるというだけしか聞いておらず、そのFさんがどういう人でどういう会社の人かも聞いていないことに、気付いたのです。

しかし、小生のことは、Fさんに伝わっていたようです。とはいってもプロ野球選手だったということだけで、Fさんは、物珍しそうに野球の話を始めました。面接ということで緊張していた小生も、野球の話しかしないFさんにすっかり安心していきました。

結局、野球の話で一時間余りお茶を飲んで、「明日から来れる?」で決まりました。

そのとき、Fさんがもう一言、「個人ノックを耐えた人間は、どんなことでも耐えられる」、なんとも変な理由で合格したみたいです。

Fさんも高校時代、球児だったそうで、あの柴田を擁する法政二校とも戦うほどの強豪校に籍を置いていたほどです。

何はともあれ合格したのですが、結局どういう会社で、どういうスポーツ番組をやり、小生は何をやればいいのか?そして給料も聞かないまま、面接は終わったのです。

そして、翌日から朝9時に赤坂の会社に通勤する、通勤地獄が始まったのです。

教訓 成り行き任せの風任せ、後先考えたら何もできない!

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面接

テレビ業界との出会いは、プロ野球時代、車の免許を取りに行った時にお世話になった教習所の先生なのです。

前回書いたスポーツ問屋の営業を辞めなくてはいけなくなった時、ちょうどその先生から、連絡を頂き、「お前に丁度いい仕事があるから」と、紹介された仕事が、テレビの業界の仕事だったのです。

なんでも放送作家の事務所でスポーツ番組をはじめるので、人を探しているということでした。

どうして教習所の先生が、業界に詳しかったか?は、後にして。

何はともあれ、すぐ面接に来いというので、スーツも持ってない小生に、その先生は自分のスーツくれ、「明日、赤坂のアイビスという喫茶店に14時に行け」ということになり、プロ時代、新宿しか知らない小生にとって赤坂と聞いただけで、緊張したものです。

アイビスという喫茶店はもうなくなりましたが、TBSの真ん前にいかにも業界の人が出入りする喫茶店として有名でした。

小生そんな喫茶店に、約束の時間の30分も前から待っていました。ドアが開くたび、入ってくる人を見ているのですが、どの人も立派なスーツを着ているものですから、田舎者のプロ野球落伍者から見れば、なんだか自分がどんどん落ち込んでいきました。

そして待ち人は14時を回っても来ないのです。そう言えば、小生の就職の面接は、今まで後にも先にもこれ一回きりなのですが、自分を買ってくれる所を見つけるのに、こんなにみじめな思いをするとは・・・。

場違いもはなはだしいこの喫茶店から早く逃げ出したい気分でした。

そして14時半を回ったときに、やっと待ち人が現れたのです。

教訓 みじめな時は、自分を信じるしかないのです!

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野球選手からテレビ屋へ

先日、恩人のYさんとお会いした。

お互いにあの年に、球団を退団したのですが、小生は、テレビ業界に、Yさんは、他球団のテストを受け、その後一軍で活躍をして、今もプロ野球と関係している仕事に従事している。

あれから30年近くの歳月が過ぎ、Yさんは大阪、小生は神奈川と離れ離れで入るけど、年に一回は、旧交を温めている。

野球の話は、もう書けませんが、その後の話をうつらうつら書いてみようと思います。

気が向いたら読んでみて下さい。

小生、野球引退後、あるスポーツ問屋の営業として働くようになるのですが、そこを一年でやめます。

その理由は、給料闘争。小生は、まだ右も左もわからないまま、その給料闘争に参加したら、みんなに裏切られて、いられなくなってしまったのです。仕事もできないのに、給料が上がるわけがないとは分かっていたのですが、先輩達の口車に乗って、「一人でも妥協したら・・・」と言われて、最後まで頑張ったのですが、当の先輩達は、社長にそれぞれ口説かれ、妥協していったのです。

そんな時でした、小生の人生を大きく左右する縁を感じたのは。

居所もなく、九州に帰ろうかと思っていたのですが、プロ時代、車の免許を取ったときにお世話になった教習所の先生からお電話を頂いたのです。

「お前に丁度いい仕事があるぞ」

それがテレビ業界だったのです。

教訓 人生は出会いで決まる!

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小生の決断

この年の始めから、もうプロでやるのはむつかしいとある程度諦めていましたから、後はどこでけじめをつけれるかとこの一年悩んできました。

そして、最後の最後で、野球を辞めるにあたって最高の舞台ができたのです。

3日間で3勝。

恩人のYさんからは、これだけ投げれるんだったら、一緒に他所のテスト受けようよと言ってくれました。

しかし、小生の肩は小生が一番分かっています。

そして数日後、Yさんと二人で球団事務所に行きました。

Yさんは自由契約に、小生はもう野球をやる気持はないので任意引退選手に。

小生の野球人生は、こうして幕を降ろしました。

小学5年で野球を始めて以来15年間、それこそ野球から逃げてばかりのことしか思い出しませんが、最後の一年最後の3勝で幕が降ろされたことが最大の思い出です。

そして、もう一度この時代に戻れるなら、間違いなく野球を本気でやりたいと思います。

教訓 人生は一回、その時その時を一生懸命に!

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最後の紅白戦3

二日で2勝は、やはり出来すぎです。

しかしさすがに3日目には、肩が上がりませんでした。

痛いというより、筋肉痛のヒドイやつです。

右肩が腫れているのが分かりました。

さすがに今日の登板は回避してもらえると思ってグランドに出たのですが、この日の先発は予定通りということでした。

肩に大量のキャピソリンを塗り、30分近いキャッチボールで肩を温めました。

しかし、この日はさすがに肩に痛みが出ていました。

立ち上がりからボールの切れはあったと思いますが、いかんせん肩の疲れ、痛みはごまかしがききません。

回を追うごとにボールのリリースが利かなくなり、球が高めに浮くようになっていました。

そして痛恨のホームランを浴びてしまいました。

とは言っても小生の記憶では、この三日間での失点はこの1点だけだったと思います。

そしてこの日も勝ち投手になり、3日で3勝もしたのです。

試合後、ホームランを打たれたKさんから嫌みたっぷりに

「バッティング投手の時、ああいう球投げてくれよ」

ムカつきましたが、指にかかった回転のいいボールは確かに打ってて気持ちいいですからね。

何はともあれ、小生の肩はもう限界でした。

試合後のキャチボールもままならないほどでした。

そしてこれで小生の気持ちも決まったのです。

教訓 やはり神様は嘘はつかなかった!

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最後の紅白戦2

紅白戦で勝った翌日は、さすがに肩がパンパンでした。

やはりゲームで投げるときは真剣勝負のなので、今まで使ってない筋肉まで使っていたのでしょう。

しかし、この日は小生の肩はオフだったので、ゲームを観戦していました。

ところがなんとこの日の先発投手が一回に打球を足に受け、投げられなくなったのです。

嫌な予感が小生の頭をかすめました。

でもまさか昨日投げている小生にお鉢は回ってこないだろうと思っていました。

関係ありませんでした。

「すぐ肩を作ってくれ」です。

それでなくとも20分のキャチボールが必要なのに、でももうゲームは始まっているのですからそんな悠長なことは言ってられません。

肩を作りながら、「もう小生の『クビ』は決まってるんだな」と20球ぐらいでマウンドに上がりました。

この時も不思議と肩の痛さを感じませんでした。

真っ直ぐも指に思い切りかかっていましたし、あまり曲がりはしないカーブでしたが、真っ直ぐと同じ腕の振りから曲がるので打たれませんでした。

1回途中から4回までを投げ、またまた勝ち投手になりました。

こうなるとバカな小生も「ひょっとしたら」なんてスケベ心も出てきました。

肩が痛くないのであれば、もう一度考えてみたくなります。

教訓 野球の神様は見ています!

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最後の紅白戦

そんな筋肉トレーニングもそろそろ終わりを迎えようとしていました。

そうです、いよいよこのシーズンも終わりをつげようとしていたのです。

ということは、小生の野球生活も終わりに近づいていました。

そんな時でした。

シーズンオフに入ったら紅白戦を行うというのです。

それも5試合も。

まあ態のいい「首切り」を決める試合です。

そして早速投手の登板表が発表されました。

小生の登板予定は、第一試合目の二番手。

第三試合目の先発でした。

正しくクビ一番手の起用でした。

そして迎えた一試合目、一試合7回勝負だったので、小生は5回からの3イニング。

そこまで確か負けていたのですが、小生が登板してひっくり返して何と勝ち投手になったのです。

詳しい成績は覚えていないのですが、紅白戦と言えども、プロ相手に3回を無失点に抑えたことは今までのことを考えると、夢のようでした。

しかしもっと驚いたことは、小生の肩、痛みがないのです。

高校時代のボールより走っていたと思います。

まさにYさんとのトレーニングの成果だと思いました。

そして一番喜んでくれたのもYさんでした。

教訓 努力は、誰かが見てる!

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どん底からの脱皮

酒におぼれる毎日、しかしYさんとの筋トレは続けていました。

とは言っても、Yさんに引っ張られ、Yさんのために続けていたといった方が正解です。

そんなYさんも小生の毎夜毎夜の外出を知らないわけありません。

「今の生活は、お前にとって何も生まないぞ」となじられました。

そんなある日、小生の勘違いでトレーニングの休日を間違えて、その日は夕食を済ませてすぐに夜の酒場へと繰り出したのです。

帰ってきたのは夜中の2時過ぎでした。

もちろん外出禁止の身の上なので寮の壁を乗り越えて帰ってきたのですが、何と小生の部屋のドアに張り紙がありました。

「帰ってきたら俺の部屋に来い!」

Yさんからのものでした。

ピンときました、小生がトレーニングの日を勘違いしていたことを!

早速Yさんの部屋に行ったのですが、Yさんは怒りもせず、

「遅かったな、さあやるぞ!」

小生の酔いはこの一言ですっ飛んでしまいました。

同じ練習生で、同じ肩を壊して、それでも自分を信じて野球を続けようとするYさん。

そんなYさんを見てると今年一年間だけでも、必死こいて野球に没頭しようと考えるようになりました。

今を大事に生きる、今できることをコツコツやるそんなことを学んだような気がします。

大げさかもしれませんが、小生にとってYさんは人生の恩人です。

                           

教訓 身をもって示しされると参るものです!

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夜の筋トレ

小生とYさんの夜のアポロトレーニングが始まりました。

小生と違ってYさんは、肩を壊しているとはいえすごく前向きで、どうにか野球で身を立てようという意思が強かったです。

そして小生にいつもこう言ってました。

「俺達は幸せなんだ、好きな野球を仕事にしてるんだぞ。周りは、野球をやりたくてもみんな辞めて言っただろう。俺達は、選ばれた人間なんだ。」

また、こんなこと言ってました。

「俺も、お前も練習生だけど、今年は肩の治療をやりながら、来年はほかの球団も視野に入れて野球を続けるための準備だと思えばいいんだ。」

このポジティブな考え方にいつも頭が下がりました。

しかし、そうは言っても小生の野球に対する気持ちはもうさめていたのかもしれません。Yさんの言葉を聞けば聞くほど、小生ごときが、この世界にいること自体失礼じゃないかと落ち込んで行きました。

それに肩の痛さも、球団からの扱いも(練習生)変わるわけもありません。

そんな時でした。小生は、目的と言う目的もないまま、夜な夜な寮を抜け出しては、酒場へと繰り出すようになっていきました。

寮を抜け出したのは、故障者は、外出が禁止されていたからです。

Yさんとのトレーニングが終わった後、寮の塀を乗り越えて夜の街へと出ていくのですが、戻ってくるのはほとんど朝方でした。

もうほとんど自分を見失っていました。

教訓 落ちぶれるときはトコトン落ちろ!

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筋トレ「アポロ」

結局キャンプに参加したのは、もうキャンプの終盤でした。

はっきりとした目的もないままの参加です。

でも、小生このキャンプで人生の恩人と巡り合うのです。

その恩人と言うのは、同じ球団の先輩です。

前の年も同じチームでプレーをしていたのですが、そんなに近い間柄ではありませんでした。

その恩人Yさんは、小生の二年先輩の投手で、小生たちが前年入団した時に練習生になった方です。

Yさんも肩を壊されていました。

そして、この年は、目出度く選手契約に格上げされていたのですが、このキャンプで風邪をこじらせ、また練習性へと逆戻り。

そういうこともあって、なんとなく仲良くさせていただいたのですが、本当の理由は、小生が持っていた「アポロ」という筋力トレの器具でした。

アポロとは、アメリカ/NASAが開発した筋トレ器具で、その名の通り、無重力空間の宇宙でもできるという画期的なものでした。

Yさんは、このアポロで痛めた肩の周りの筋肉を鍛えようというのです。

しかし、操作は小生しかわかりませんし、二人一組じゃないとアポロは、できないのです。

ということで、小生とYさんの夜の筋トレが始まったのです。

このYさんが目的を失っていた小生に道しるべをつけてくれるのですが。

教訓 目標のない人生は、全くつまんないものです!

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自主トレ

この契約違反でもしプロ野球を辞めていたらおそらく小生の人生は、逃げてばかりのものになっていたように思います。

肩の痛さなんかどうでも良くなりました。

お金の分、返してきなさい。

これが利きました。

もう自主トレも始まっていましたから、早速帰りました。

でも、一年前とは全く気持ちが違ってました。

プロへの憧れなど微塵もありません。

一年間の奉公に来たようなものです。

しかし、夢もないのにあんなキツイ練習についていけるはずもなく、現実にぶち当たるのです。

練習での手抜きはもちろん、夜は外出禁止の身なのに、裏口から夜の街へと出没していきました。

そしてキャンプ出発の前日だったと思います。

やはり罰があたりました。

深夜お酒を飲んで帰ってきたのですが、朝方足が痛くて目を覚まして見ると、右足が風船のように膨れ上がっているのです。

這って寮長のところまで行き、病院に連れていってもらいました。

即入院、足に菌が入って化膿し、昨夜のお酒も手伝って膨れ上がったみたいです。

キャンプどころではありません、二週間の入院です。

教訓 奉公は軽い気持ちではできません!

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契約違反

練習生という響きは、プライドも何もズタズタにされた気分でした。

でも自分の内心は、肩を壊して何もできない一年でしたから、本当は分かっていたのです。

契約違反と騒いでも、法律ではそうかもしれませんが、ボールもろくに投げられない19歳の小生にただ飯を食わしてくれているんですから。

でも、人差し指の件がどうしても割り切れないのです。

もうプロでやっていく自信も萎えていましたし、あの時の小生は、正直野球から逃げたかったんだと思います。

そして、九州に帰ってみると案の定です。

父と母は、どうして帰ってきたかと怒り心頭です。

どうも球団からこのことは事前に親に知らせていたらしいのです。

そして小生をスカウトしてくれた方まで来て小生を説得です。

球団としては、騒がれたくなかったんだと思います。

できればこのまま野球を辞めたいと甘い考えでいました。

しかし、小生の身内はやはりそんなことを許さないのです。

今でも覚えています。

小生がT高校を辞める時に、恥をかきなさいと自分の荷物をリヤカーで駅まで運ばせたあの叔父さんがまた登場しました。

「お前はあの球団からいくら頂いた?そのお金で両親が八百屋で作った借金、先祖の墓、どれだけ助かったかわかるだろう」

そして続けて、「何もできないなら、バッティング投手でいいじゃないか、この一年ちゃんと返してきなさい、お前の右腕が一本なくなっても親族一同はお前を見捨てない」

ここで逃げちゃいけないと思いました。

教訓 契約より人道です!

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契約

長野からオフで九州に帰った頃、球団から封書で来季の契約書が届きました。

オフになるとプロの選手はそれぞれ球団事務所で契約をしている報道がテレビで報じられますが、あれは一軍選手だけのものです。

二軍の下の方の選手は、小生みたいに封書で送ってきてサインをして遅れ返すんです。

もちろん「ノー」と言う返事はありません。

球団が提示する金額に同意してサインです。

しかし、この契約からひと月もしない一月の初めでした。

年が明けて自主トレが始まりました。

そこでとんでもないことを言われるのです。

球団が新人を取りすぎたから、選手契約から練習生契約にしたいというんです。

これは、完全に契約違反です。

どういうことか説明しますと、当時一球団の支配下選手の枠が60人と決められていました。

だからこの枠を超えると選手として契約できないのです。

そして驚いたことに、小生と同じように選手で契約していて練習生扱いになった人が数人いたのです。

球団も計算もしないで獲ったものです。

小生は、どうしても我慢がならず、考えさせて下さいと九州に帰ることにしました。

小生の他の人たちも、泣き寝入りをした人、契約違反を申し出て、年棒をそのままもらって辞めていった人もいました。

小生も人差し指の件があったのでこういう態度に出たんだと思います。

教訓 大人の世界は汚い!

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人差指の古傷

右人差し指の血の流れの悪さは、小生にとってすごくショックでした。

右肩の故障も元を正せば、この指が原因かもと先生に言われました。

確かに思い当たる節はありました。

高校時代から、確かに小生のコントロールの悪さは、その日投げてみないと分からないんです。

とてつもないピッチングをしたかと思えば、翌る日は、ストライクが入らないんです。

しかし、投手のコントロールは、フォームさえ出来上がっていれば、そんなに狂いっこないんです、それが自分でもどうしてもわかりませんでした。

また、人差し指と中指にできるマメでも感じてました。

投手は、ボールを投げ込んでいくとボールとの摩擦でこの二本の指にマメができるんですが、中指には決まってできるんですが、人差し指はできたりできなかったりでした。

そして何より、人差し指には投球の際、微妙な感覚が感じられなかったのです。

この診断結果を突き付けられて初めて自分の欠陥を知りました。

真っ直ぐを投げているのにシュートしたりスライドしたりは、当然あったでしょう。

怖いのは、分かって投げていないということです。

普通の投手でも、シュートやスライダーの投げすぎで肩や肘を故障するのです。

意識しないで何球も投げていれば、故障しない方がおかしいのは道理です。

長野へのこの治療は、間違いなく小生の野球人生を左右するものになりました。

だって肩が治っても、この指の血行が良くならない限り、小生の肩はまた同じことを繰り返すということですから。

教訓 故障の原因は早く突き止める!

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肩の治療

クビは免れましたと書きましたが、来季の契約を交わした訳ではありません。

秋季練習が始まったのです。

そこに来ない選手がクビになった選手と言うことです。

誠に残酷な世界を二十歳そこそこで覗いてしまいました。

何はともあれクビは免れたのです。

しかし、小生の肩の状態は、一向に回復に向かいませんでした。

そんなこんなで秋季練習も終わり、帰郷が許されたのですが、数日もしない頃、球団から、肩の治療で長野に行ってくれとのこと。

長野の国立病院に当時プロ野球界の注目する先生がおられて、故障者も含め十数名が派遣されました。

もちろん有名な先生なので、小生の球団以外にもプロ野球選手が来ていました。

そこでの治療は、まずどうして故障してしまったのか?

原因を究明からスタートして、あらゆる治療を施していくのです。

そこで小生に決定的な欠陥が見つかるのです。

それは、サーモグラフィー?なる血液の循環を調べていた時でした。

血の流れが普通だと赤く映るんです。

それが、ほかの指は正常なのですが小生の右手人差し指だけ真っ黒なんです。

人差し指だけ極端に血のめぐりが悪いのです。

ということは、感覚も鈍いということです。

心当たりはありました。

そうです、中学時代のバレーボールです。

教訓 ツケは必ず回ってくる!

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一年目のオフ

肩を壊して何もできない一年でした。

そしてオフが近付くにつれ、寮で一種独特の空気が流れ始めました。

来季の契約問題です。

そうです、プロ野球選手は、自分の意志とは別に球団が必要としない選手は、いらない訳です。

先輩たちは、二軍暮らしが長いとどうしてもこの季節、不安な気持ちになるそうです。

先輩の中には、他所の球団のテストの時期をチェックしたり、第二の人生を考える方もおられました。

そんな中、小生は一年目と言っても、丸一年肩を壊してなにもしていませんでしたし、第一ドラフト一位二位ならまだしも、ドラフト外でしたからまさかとは思いましたが、自分のクビを疑いました。

でも、そういうことって、場の空気で察しが付くものなんですね。

夏の終わりごろから二軍監督、コーチなんかの選手に対する扱いを見ていましたから、クビ確実の選手、当確線上の選手とランクを付けて接してたみたいです。

というのは、来期何人の選手を獲るかによって、クビの人数が決まるからです。

お金のある球団ほど、新人の獲得数が多くなりますし、お金のない球団は、せっかく獲った選手を大事に育てます。

なぜなら、選手を獲れば高い契約金を払わなければならないからです。

小生は前者の球団でしたから、クビの選手は多いかったです。

幸いに小生のクビは免れました。

教訓 プロは自分の意志とは別の意思が働くのです!

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バッティング投手

そして小生のバッティング投手の日々が始まりました。

何回も書いていますが、元来コントロールが良いわけではありません。

こんなことがありました、バッティング投手をやってるとき、ストライクが入らない腹いせとインコースにデットボールまがいの抜けたボールが行ったとき、バットが飛んできました。

勿論故意に投げたボールではありません。

しかし、彼らプロのバッターには、小生の肩を考えてくれる人なんかいるはずはないのです。

自分の練習をキッチリやっていかないと誰も助けてくれないのですから当然です。

彼ら打者は、一球でも多くの生きた球を打ちたいのです。

小生が投げる死んだボールは、逆に彼らの調子を崩しかねないから、できれば小生にほかの投手に代わってもらいたいのは、痛いほど分かっていました。

しかし、今小生がプロとしてできるのは、バッティング投手ぐらいしかないのです。

肩の痛さより、みんなに申し訳ないと思うほうが辛かったかも知れません。

こんな調子だから、肩の調子も一向によくなりません。

そういえば、バッティング投手を務める時は、夏だというのに、20分も前から肩を温めるために、キャッチボールを始めていました。

それも練習前にキャピソリンという肩をマヒさせる?薬を右肩に塗ってです。

いかに痛かったか?おわかり頂けると思います。

まあこんな毎日が、この年いっぱい続きました。

こんな目にあっても辛抱できたのは、この球団特別の投げ方で肩を壊した先輩が他にもいたからです。

そんな先輩たちが、文句も言わず痛みと闘いながら、コツコツと自分の練習を積み重ねている姿を見るにつけ、プロの恐ろしさを垣間見ました。

教訓 泣き言を言っても誰も助けてくれません!

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地獄のような日々2

肩を痛めてすべてにおいて厭になっていました。

T高校時代に全く打てなくなったときもそうでしたが、まだあのときは練習すればなんとかなると思っていました。

しかし今回は、その練習ができないのです。

それと絶対に違うのは、高校の時はライバルといっても同じチームメイトなんです。

しかし、プロ野球は、そんなの全く関係ありません。

みんな一軍に上がらないと近い将来「クビ」になる、野球を追われる境遇にいる個人事業主です。

他人のことなんか心配する余裕なんかありません。

ファーム(二軍)にいる投手たちは、それこそ喜んでいたと思います。

まあそれほどの実力もなかったですけど。

そんな生活がひと月も続いたでしょうか。

確か梅雨時期には、なんとかキャチボールができるぐらいまでは、回復しました。

そうはいっても、痛みがなかったかというとそうでもありません。

きれいに型にはまったフォームで投げていれば痛みも軽いのですが、肘や体重移動が上手くいかないとやはり激痛が走るのです。

しかし、いつまでもそうはしてられません。

この痛みと上手く付き合いながらやっていくしかないと決心しました。

バッティング投手ぐらいしかできないのですが。

しかし、このバッティング投手でまたもや苦難です。

教訓 プロは非常なところ!

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地獄のような日々

肩を壊したことなど今まで一度もありません。

痛いのは痛かったです。

それよりも投手が投げられないのでは、商売あがったりです。

しかし、はじめのうちは今まで肩の痛みをこらえて練習をしていましたから、少しはいい休養に成るぐらいにしか考えていませんでした。

練習はというと、ボールが投げられないのですから、ただ走るのみです。

毎日の練習時間がだいたい4時間から5時間でしたからこの時間ずっと走ってるわけです。

たいがい嫌になります。

陸上部ではないんですから。

生活もはじめは箸も持てないぐらい痛かったですから、不便きわまりありません。

風呂での脱衣や体を洗うときは苦労しました。

そういえばこんなことがありました。

夕食のときです。

食堂で食事をしてるときに、先輩から「ボールも投げられない奴がよく飯が食えるな」と小言を言われました。

それもみんなに聞えよがしにです。

そして毎日が治療でした。

トレーナーに針を打ってもらい、風呂では自分でマッサージ。

夜は、ホットパックなる肩を温めるものを2回も3回も取り換えながら、寝返りも打てませんでした。

でも一番つらかったのは、外出禁止でした。

教訓 五体満足が一番です!

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肩の故障

プロに入ってからの急な投げ込み、フォームの改造と急ぎすぎたのです。

やはり高校時代の丸一年間、試合にも出られず、ただの練習だけでは、筋力気力とも衰えていくものなんです。

右肩に違和感を感じるようになってもフォームの改造は続いていました。

投球練習は勿論、居残り練習では、ショート一塁間の送球をやらされるのですが、それさえもヘンテコなフォームでやらされる始末。

右肩の違和感は、痛みへと変わっていきました。

そして、5月の半ばでした。

もうすでに痛みは、ピークでした。

その日は、バッティング投手を終えて、いつものように居残り練習をやっていました。

ショートの位置でノックを受け、一塁へのと送球するのですが、その練習を始めて間もなくのことです。

右肩に鈍い音が走りました。

「ビシッ」

何かが切れたような音でした。

次の瞬間、激痛が走りました。

肩のパンクです。

その日、トレーナーの方に見てもらったのですが、「とりあえず痛みが治まるまでは、投球禁止令が出ました。」

そりゃもう大変です、痛みで箸さえ持てないのですから。

教訓 やっていい無理とやっちゃいけない無理があります!

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投球ホーム改造3

オープン戦の結果も踏まえ、今のままでは、プロとして通用しないことを目の当たりにし、やはりフォーム改造へと自分の気持ちが動いて行きました。

それは勿論このチームの監督が推奨するフォームではないのですが、いかんせんコーチ一同みんなが指導するのですから仕方ありません。

しまいには、プロ経験のない二軍監督までが、小生を捕まえて指導する始末です。

しかし、二軍の指揮官は、「実践から離れているんだから5月めどで(肩を)作ればいい」と言ってくれていましたから、無名選手の弱みで、フォームの改造に着手したのです。

おかげで、ヘンテコなフォームも習っていくうちに、ひじの使い方があまり上手くなかった小生の欠点も少しずつではありますが修正されていきました。

もともと小生の投げる球は、回転の少ないドスンという球で、肩に負担がかかる投げ方でした。

それが、肘が前に出るようになり、ボールの回転がつき始めたようでした。

回転が増えた分、球質も重いボールから軽くなり、切れも出てきた感じでした。

そうなると肩の負担も軽減されるはずでした。

しかし、実はこのフォーム改造は、小生にとって取り返しのつかないことになっていくのです。

ちょうど5月の声を聞くころでした。

右肩に違和感を感じるようになるのです。

やはり、1年以上のブランクがここにきて出始めたのです。

教訓 焦りは決してプラスには作用しない!

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1年5か月振りのマウンド

小生高校二年の秋以来、実践のマウンドは実に1年5か月ぶりです。

とはいっても高校三年生の時も、ほとんど毎日ピッチング練習を行っていましたし、たまには後輩相手にバッティング投手を務めてもいました。

しかし、野球経験のある方でしたらお分かりいただけると思いますが、ピッチング練習やバッティング投手をいくらやっても、本当の試合でバッターと真剣に勝負するのはやはり違うものです。

何が違うかって、それは、ただコースを目がけて投げればいいのとは、全くの別物です。

第一に打たさないように投げなければいけません。

それは、カッコよく言うと気を入れて投げるとでもいいましょうか、だから、練習で投げるのと試合で投げるのでは、終わった後の疲れ、肩の張りが全く違うのです。

だから、小生の1年5か月ぶりのマウンドは、想像以上のブランクだったのです。

そして、いよいよその時がやってきます。

相手は、セリーグの雄Gです。

二軍とはいえ、有名選手がごろごろいました。

小生8回からマウンドに上がりました。

思ったよりも緊張はありませんでしたが、やはり思うようにコントロールできません。

ボールが先行してストライクを取りに行ったところを確か6番バッターにライトスタンドに運ばれました。

結果は、1回を投げて、ヒットはこの一本だけだったと思います。

しかし、高校時代ホームランなんか打たれたこともありませんでしたから、ショックは拭えませんでした。

教訓 ストライクは置きにいくものではなく、キリにいくもの!

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投球フォームの改造

S球団では、伝統的に一つ困ったことがありました。

というのは、一軍の監督自ら、ピッチャーのフォームをいじるのです。

いや、いじるという言い方は適当ではありません。

いじられるのであれば、まだいいのです。

悪い所を変えるわけですから。

しかし、そうではありません。

みんな同じ投げ方に変えるのです。

これは、今考えれば非常におかしなことです。

それは、みんなそれぞれの投げ方でプロのスカウトの目に止まった訳ですから、多かれ少なかれ、そのフォームも含めてスカウトされたわけです。

それをまるで否定されたように、一軍監督にフォーム指導を受けるのです。

でもこの一軍監督、現役時代は捕手出身で、そのほとんどがブルペンキャッチャーと聞いています。

たまさか投手出身であればまだしも、捕手ですよ。

どう考えてもおかしいのですが、プロに入って、まして一軍監督ですから、我々にとっては、雲の上の存在から指導を受けるわけですから、まさか「ノー」とも言えません。

それよりもしかしたら、これで気に入られればと考えたのも無理はありません。

小生この教えられたフォームを現役引退後、みんなの前で披露したことがあるのですが、みんなから笑われました。

まるでバッティングマシンなのです。

しかしこの投げ方は、コーチたちの間でも黙認され、誰も止めようとしないのです。

教訓 プロは自分で責任をとるもの!

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プロのキャンプ

キャンプも中盤になるとさすがに十代のこの体も疲れてきます。

一月最初からの自主トレからほとんど毎日全力でやってきたのですから当たり前です。

しかし、プロで何年か飯を食べている人は、毎年このキャンプをやっているわけですから、力の配分も心得ているというもの、小生たち新入団選手は、みんな疲れのピークでした。

特に高校出の我々は、やみくもに毎日をこなしている感じでした。

それと同時に、前にも書きましたが、プロの壁にぶっつかったまま、出口の見つからない毎日は、正しく小生奈良のT高校の頃の悪夢が頭をよぎりました。

小生の弱気の虫が顔を出し始めたのでした。

朝から晩までのキャンプ生活は、高校時代の管理された野球生活となんら変わりはありませんでした。

しかし、唯一違ったのは、休みが定期的にあるということです。

確か5勤1休だったと思います。

あと何日で休みだと自分に言い聞かせて頑張りました。

そしてその休日はと言うと、もう年棒として給料ももらっていましたので、使い放題です。とはいっても、まだ高校生、お金の使い方も知りません。

だから休みはもっぱら先輩に連れられてパチンコでした。

そんな休日も夜になるとまた明日からの練習に頭を悩ませていました。

初めてのキャンプはこんな毎日でしたが、実は、小生の野球人生を左右することが起きるのです。

それは次回にして、これを書いてるたった今、巡りあわせですね。当時S球団に一緒に入団したIから20年ぶりに電話があったんです。

彼も小生と一緒に二年でクビになったのですが、今広島で接骨院をしているそうです。

教訓 プロはやはりプロです!

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キャンプイン

二月になりいよいよキャンプインです。

自主トレでは、ランニングやトレーニングだけだったのでプロの野球のレベルを見る機会もなかったのですが、キャンプは野球の実践です。

若手投手は、初日からブルペンに入り、ブンブンです。

打者もバッティングが始まり、改めてプロのレベルを垣間見ました。

小生の正直な感想は、『何なのこの人たちは!』でした。

正直自主トレの頃は、体力的にはそんな差はないし、鍛えればどうにでもなるなと軽視していたのです。

ところが、キャンプインの日、そんな甘さは微塵にも打ち破られたのです。

まずは、ブルペンです。

こんなスピードボール見たこともないという投手ばかりです。

早いのなんの。

その中でも、後に日本ハムで完全試合をやったSさんの球は、群を抜いていました。

そのSさんですら、前の年は一勝止まり、そして彼が言うには、先発ローテーションで投げてる人たちは、こんなものじゃないと聞かされて、目の前が真っ暗になりました。

スピードだけでは勝てないというのです。

ストライクとボールの間をボール一つ出し入れするというのです。それもストレート、変化球ともです。

小生ここで本当にやっていけるのだろうかと今更ながら考えてしまいました。

そしてもし生き残れるとしたら、どういう方法があるのか?すでにこんなことを思っていました。

教訓 伊達や酔狂で金はもらえません。

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プロ入団

年が明けて、一月早々には、もうプロの自主トレに参加していました。

それはもう緊張の連続でしたが、プロの先輩OBと練習をしていたせいで、練習自体には苦もなくついていけました。

それよりも、プロ何年目かの先輩たちが全くノンビリやっているのに驚いたくらいです。

どうしてか?は、後でわかるのですが、みんな一様に飛ばさないのです。

頑張っているのは、小生たち新入団選手だけ。

彼らは、今から始まる一年間のシーズンを熟知しているのです。

自主トレに始まり、キャンプ、オープン戦と進むのですが、一軍選手は、オープン戦の後半に、一軍を狙う選手は、キャンプ後半にピークにもっていけばいいのです。

自主トレから飛ばしていたのでは、確かに持ちません。

まして、十代の我々と違って、もう何年もプロで飯を食べているのですから。

自分の体を皆さん熟知していました。

そして、皆さん多かれ少なかれ、体のどこかに故障を抱えているのです。

その古傷と相談しながら闘っていたのです。

それを裏付けるように、我々新入団選手の中に故障者が出ました。

太ももの軽い肉離れだったのですが、その時のトレーナーの言葉が「これでシーズンの前半戦は使い物にならないぞ」

すぐ直りそうなものですが、そんな甘いものではないのです。

一年間を通して野球をやるということは、少しの出遅れが命取りになるのです。

そういう小生も、飛ばしすぎて重大な故障を負うのですが!

教訓 プロの選手はケガとの戦いです!

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プロ野球の恐ろしさ

この年もプロに入ったOBの先輩が帰ってきていっしょに練習をしていました。

しかし今年は、小生のプロ入りが決まっていましたので、何かと先輩たちとの触れ合いも多くなり、プロでのいろいろなことをレクチャーしてもらいました。

そんなある土曜日だったと思います。

練習も終わって、三つ上のプロの先輩二人と連れだってバッティングセンターに行ったのです。

この時のこと小生ははっきり覚えています。

言い忘れましたが、この先輩たちはプロでは、内野手と外野手、ということはバッティングで生きているということです。

まず、130キロ(このバッティングセンターの最速)のゲージで打ち始めたのですが、彼らにとってこの130キロは、朝飯前なのです。

このスピードだと彼ら二人は、ほとんど打ち損じがありません。

小生はピッチャーとして空恐ろしいものを感じながら、眺めていました。

だって小生の球速は、140キロまでは出ていなかったと思います。

このままでは、プロのファーム(二軍)の選手にも通じないと本気で思いました。

しかし、これだけではなかったのです。

彼らはあろうことか、ゲージを出てマシンの方へ2メートルばかり近付くではありませんか、実は、この年まだウエスタンリーグで投げていた中日の小松投手のスピードを体感すべく前に行ったのです。

そしてその球を打っているではありませんか。「小松ってこれぐらいやな」といって。

これはとてつもない所へ行くんだなと思いました。

教訓 プロは怪物の集団!

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プロのトレーニング

小生は、プロ入りが決まって、プロに向けての練習を開始しました。

小生の母校では、毎年12月になるとプロに入っているOBの先輩がオフで帰ってきます。

そして、冬の練習が始まるのですが、当時プロに入ったOBが三人いました。

三人とも在阪のパリーグでまだファームでしたが、三人とも将来を嘱望されていました。

そのうちの二人が小生より三つ上の先輩で、この冬もほとんど毎日我々後輩と一緒に練習に参加していました。

だから当然小生の母校の冬の練習は、プロでやっている練習をこなしていたのです。

この練習は、何が凄いかと言うと、ほとんど休みなく続くダイヤモンドを使った練習です。

ダイヤモンド、そう四角い塁間をうまく使った筋力アップのトレーニング。

ウサギ跳び、アヒル歩き、ジャンプ、股割ジャンプ、などなど約30種類のプログラムをこの塁間を使って行うのです。

まずホームから一塁まで、そして一塁から二塁間は歩き、二三塁間は又プログラムをこなし、三本間は歩くといった具合に、とにかくこれを繰り返すのです。

意外と歩いてる時間があるから楽かなと思うのですが、これが実にきついのです。

だって途中休憩が全くなく、ただもくもくと渋滞することもなく、自分のトレーニングを繰り返しているのですから、なるほどプロの練習だという感じです。

四時に始まった練習がこのダイヤモンドトレーニングが終わる頃には、六時ぐらいです。

でもこれで終わりかと言うと違います。

ここから、今度は上体の筋力トレーニング、そうです、腕立て・腹筋・背筋をみっちり5010セット。

奈良のT高校の時もシンドかったですが、こちらもシンドかったです。

でもおかげさまで、プロに入ってトレーニングで音を上げたことはありませんでした。

教訓 プロ練習は内容が濃い!

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怪物Mは一軍選手

小生がプロ入りを決めたこの年、小学時代からのライバル『怪物M』はもうすでに阪急ブレーブスで一軍に定着していました。

彼は、K工業に入学後、一年生でライトの定位置を取り、夏の福岡大会の準決勝で、あの強豪柳川商業を戦うのです。

この試合で、彼は久保投手(現阪神タイガースの投手コーチ)からライトスタンドにホームランを叩き込むのです。

ちなみに、久保投手はこの年の近鉄ドラフト一位ですよ。もう一つ書くと、あの原監督が東海大相模高校時代、高校時代対戦したナンバーワン投手だと絶賛した投手です。

彼は、そんなピッチャーから打ったのです。

そういえば、九州に戻った高校一年の秋、小生がプロ入りが決まった二年前、八幡の祭りでばったりMと会ったことがあります。

その時彼は、K工業を中退し、広島カープのテストを受けたと言ってました。

一時テストは、走力、遠投など基礎テストだったらしく、合格。

なんでも遠投で広島球場のホームから投げてバックスクリーンを越えていったらしいのです。当時、プロ野球一の強肩、山本浩二さんもびっくりだったそうです。

次は実技のテストだと言ってましたが、その広島の一時テストを見てた阪急のスカウトから誘いが来てることも言ってました。

彼は、それで阪急を選んだのです。そして一年間球団職員として練習し、この年二年目にはすでに一軍に定着していたのです。

本当に天才です。

教訓 持つべきは、目標です!

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プロ入り

母の反対は、三日間続きました。

言い出したら聞かない芯の強い母でした。

父はと言うと、やはり小生が小さい時、西鉄ライオンズを見に平和台球場までタクシーを飛ばしたほどの野球好きです。

心はすでに、息子のプロ野球入りでした。

余談ですが、小生を熱心にスカウトしたS球団のSスカウトを小生の父は、西鉄当時の同姓のS投手と勘違いをし、「S投手の目利きなら間違いない」と喜んだほどです。

実はSさんは、その当時、西鉄の強敵南海のSさんだったのです。

そんなこともありながら、小生の進路は決まったのです。

プロ入りに反対だった母も最後は

「あんたの人生、悔いの残らないように」

認めてくれたのです。

そして、S球団の方に連絡をしたのですが、その日の夜には、自宅におみえになり、簡単な条件面などの話になりました。

そしてほかの球団の手前もあるからと小生の進路は、ドラフトまで大学進学ということに嘘をつく形になったのです。

後は、大手銀行の方の処理ですが、監督が神戸まで行ってお断りをしていただきました。

こうして小生の進路は、プロ野球へと進んでいくのです。

教訓 下駄を履くまで諦めない!

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家族会議

実は、バッターでという球団もあったという話を聞いて、実は小生そちらの方が自信があったのですが。

うちの父も、てっきり打者でのスカウトだと最後の最後まで勘違いしてたくらいです。

でも、監督さんの親心も分かります。だって小生、もしプロに行ってどこを守るのかと聞かれたら、正直困ります。

まあ外野と答えるでしょうが、プロで通用する守備技術は持ち合わせていません。

かといって、本当にホームランバッターになれれば、プロ野球でも一塁手と言うポジションを守れるでしょうが、外人さんの長打の勝負は目に見えています。

だから監督さんは、投手で熱心に誘ってくれたS球団以外は、社会人入りと考えてくれたみたいです。

そして、プロ入りの件で、家族会議になりました。

両親と父親の兄弟二人が集まって、ああでもないこうでもないと言い合っていました。

自分の気持ちは、家の借金のことがありましたから、決まってました。

だって自分のまいた種ですから。

しかしここで一人だけ、猛反対者が出たのです。

母です。

社会人に進めというのです。

「奈良の高校を抜け出すような男が、プロで通用はしたい」キツイ一言でした。

でも、母の本心は、息子を借金の方にプロ野球に売りたくなかったと思います。

教訓 どうせ一度の人生、悔いは残さないように!

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やはりプロ野球?

小生の父親の一言で、あっけなく大学の道を諦めなくては行かなくなった小生は、もう大手銀行の野球部にお世話になろうと心に決めていました。

他にも二三の社会人のチームからお誘いはあったみたいですが、熱心に勧誘して下さった所にお世話になった方がいいと思っていましたから。

これで小生の就職も一件落着かと思われたのですが、実はここから急展開を見せるのです。

プロ野球のS球団のスカウトが急に会いたいというので、練習場に二人で現れたのです。

一人は、もう何回か会いに来て下さってる方でした、その方が、もう一人の方を紹介してくれたのですが、何でもそのチームのチーフスカウトさんでした。

早速、その方の前でピッチングです。数十球も投げたでしょうか、投げ終わった後、何やら監督とヒソヒソ話。

その夜、また監督が自宅に現れたのです。

大手銀行の野球部の話がついたばかりですよ。

監督は、「今日正式にS球団から入団の打診がありました。」

返事を待っていると言い残して帰って行ったというんです。

早速ですが、「どうされるか、考えて下さい。」とこうです。

そして付け加えて、「実は、バッターでという球団もあったのですが、息子さんの実力を考えますと」と意味不明の言動。

どうも小生のプロ入りは監督自体が、先送りしたかったみたいなのです。

確かに、六月ごろ三日と開けずいろんな球団のスカウトが見えていましたから、あの時、監督とそんな話をしていたのでしょう。

教訓 人生一寸先は闇です!

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父の話

大手銀行のセレクションに合格した日、高校の監督さんが自宅にお見えになり、銀行に行くことを勧めました。

両親も、野球のことなど全くわかりませんから、拾ってくれるとことがあるのならと、社会人野球入りを希望しました。

しかし、小生はどうしても大学に進みたいと思ってました。現にこの頃になるといくつかの大学からも声がかかっていました。

小生が大学にと思ったのは、やはり就職して、野球を出来なくなった時のことを考えてのことでした。

企業人になることは、やはり出世が気になります。

高校出と大学出では、ゆくゆくの昇進が違ってきます。

だから、できるなら大学までと思ったのです。

そんな時です、父から重大なことを聞かされたのは。

それは、家の借金のことでした。

神棚の前の呼ばれて、通帳をみせられました。

今でも覚えています。当時の金で600万円。

前にも書きましたが、奈良の高校進学で郵便局から借金をしてることは知っていましたが、これほどあるとは。

それとこれも書きましたが、父は体が弱く、八百屋の重労働に入退院を繰り返していました。

これで小生の大学行きは、消えたのです。

教訓 親は絶対です!

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社会人のセレクション

セレクションは、肉離れのせいでみんなとは別メニューだったのですが、軽いピッチングを後ろで見ていた方が20球も投げた時、「もういいよ」と声をかけるんです。

こりゃ駄目だったんだろうなと諦めつつ、バッティングゲージへ。

打つ方には、肉離れは支障なかったのでしっかり打ちました。5スイングだけだったのですが、柵越え1本とレフトオーバー2本。こちらの方は手ごたえ十分です。

そして、いよいよ発表です。受験番号1番だった小生、まさかの合格。

合格者5人の中に入ったのです。

そしたら、明日筆記テストを行うので、ホテルを取るから泊ってくれと言うんです。

小生は、友達と一緒に来ていましたから、一人だけ泊まるのはできないと返事したら、では今からテストするというんです。

大急ぎで、テストを受け、神戸のフェリー乗り場までマネージャーの方が車で送ってくれました。

何か、高校のクラブ活動とは違う、優越感を感じました。と一緒に企業ってすごいんだなと思いました。

九州に戻ってから、1週間後に大手銀行野球部の監督さんが学校に来られ、是非とも来てくれという話になりました。

大変有り難いお話でしたが、小生の気持ちは、やはり大学に行きたい気持ちが強く、考えさせて下さいという返事をしました。

そんな時でした。父から驚く話をされるのです。

教訓 上手く行きだしたら、悪くなるまで突っ走る!

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プロのスカウト

本当に夢みたいな話でした。まさかプロの目に止まっていたとは!

しかし、小生のことどこで見ていたのでしょう?大した実績もないのに、未だに不明です。

考えられるのは、T商業高校のOBはこの当時3人もプロ選手がいました。オフになると高校にきて一緒に練習していましたから、この先輩たちの呼びかけによるものだったかもしれません。

事実、この3人の先輩がいる球団のスカウトも、このあと小生のところへ何回となく視察に来ましたから。

何はともあれ、これで卒業後も野球がやれそうになってきたわけです。

そして、夏の大会が近付くにつれ、スカウトの方が視察に来る頻度も増えていきました。わからないのは、スカウトの方も投手として買ってくれてるのか、打者として買ってくれてるのかはっきりしないのです。

しかし、小生この時点でも、本当にプロへ行けるとは、思ってもみませんでした。

監督には、できれば大学に行きたい旨を伝えていました。

そして、夏の県予選も終わり、八月に入ってある社会人からのセレクションの誘いがきました。

関西にある大手銀行だったのですが、行ってみるとなんと100人近い受験生がいるのです。

それもある程度腕に自信のある連中でしょう。

小生この時、足に軽い肉離れを起こしていましたので、軽いピッチングとバッティングだけのテストでした。

教訓 人生どこで転機が訪れるか分からない!

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本当に最後の大会

最後の最後にきて、やっと高校野球の楽しさを実感していました。

本当に遠回りをしてきましたが、ここにきてやっと自分の本来の力が出てきたようです。

というより、自分の力に自信を持てるようになったのです。

こうなるともうしめたものです。小生もう自身の固まりでした。

投げては、千切っては投げ、千切っては投げの快投です。バットに当たってもまず外野まで飛んで行きませんでした。

自分で言うのも変ですが、投げてて全く打たれる気がしません。

打っても、長打長打の連発です。今までの自分とまるで別人です。

そして、最後の秋の大会を迎えるのです。

結局三回戦で負けるのですが、一回戦、二回戦は、夏の甲子園出場校やバッテリーともプロのスカウトにマークされた高校を撃破したのですから満足でした。

三回戦で敗れた相手は、この夏の大会で足をすくわれた同じ相手でした。

だからでしょう、初回から力が入って、フォアボールの連発、気がついたときは、4点のビハインドでした。確か46だったと思います。

また悪い病気が出たのですが、何かさばさばしていました。

最後は、自分らしい終わり方だと納得です。

でも、新たな目標ができました。

この秋の自信で、一つ上で野球を続けたいと思うようになっていました。

大学、社会人どちらでも構いませんでした。

この時は、まだプロに行くなどとは、夢にも思っていませんでした。

教訓 高校野球は2年五か月の青春!

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自分のための野球

投手としての調子は、上がりませんでしたが、野球に対する取り組みは、手抜きなしです。

毎日、小生の家から学校までの通学路、12キロの道のりを行きも帰りもランニングでしたし、練習でも、ほとんど走っていました。

決して結果を求めてやっていなかったと思います。ただ野球にどれだけ没頭できるか、自分を試しているような感覚だったと思います。

そんな時です。小生に目を掛けてくれていた監督が、「もうそろそろ本気出さないと間に合わないぞ」と叱咤激励されたのです。

もともと小生の野球能力を高く評価してくれていましたから、監督からしたら本当は腹立たしかったでしょう。

そして、ズバリ「お前の弱点は、先暗示だ」と指摘されたのです。

「後先考えずに、思いっきり投げてみろ、フォアボールを恐れてどうする、負けるときはどうやっても負けるんだから」続けて「あれだけ練習してるんだから、野球の神様は見放さんよ」このようなことを言われました。

監督のこの言葉は、小生の何かつっかえていたものを取ってくれたようです。

その次の試合から小生の嘘のようなピッチングが始まるのです。

内野安打1本、無四球で三振は15ぐらいだったと思います。次の日もダブルヘッダーも二試合とも完封です。

そうなると、打つ方も三試合で5ホーマーとアウトになった記憶もないぐらいの絶好調です。

教訓 野球は気持ちでやるものなのです

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もう一度野球がしたい

もう一度野球がやりたい

終わってしまえば、やはりさびしいものです。

甲子園を目指して始めた野球、甲子園に出たくて奈良の高校まで野球留学、しかし、夢を一旦諦め帰郷、そして、もう一度巡ってきたチャンスには、間に合わず。

終わってみて考えたのは、本当に自分で独り相撲を取っていたように感じました。

そんな時、柔道部の先生から、うちに来てやらないかと誘いも受けていました。

しかし、このままでは、終われないと正直思いました。

そんな小生は、まだ高校二年生です。

実は高校野球の規定で、小生の場合秋の大会までは、出場できるのです。

しかし、相手は一つ年下の連中です。

戸惑いもありましたが、あと三か月は、野球ができることに感謝でした。

八月の暑い夏の練習も、三回目です。シンドイのは一緒ですが、気が入ってる分一番成長した夏だったと思います。

自分の為にちゃんと足を地につけた練習でした。奈良の高校の頃から何故こういう気持でやらなかったのかと思います。

まあ後悔先に立たずですね。

そして、八月も終わろうかとする頃になると練習試合が組まれるのですが、小生のノーコン病は、まだ治っていませんでした。

球はそこそこだったのですが、ストライクが突如として入らなくなるのです。

だから、ヒットは打たれないのですが、フォアボールで自滅です。

こんな試合が数試合続いた頃でした。小生に転機が訪れるのです。

教訓 後悔先に立たず!

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最後の夏

監督が代わってからも、なかなか調子が上がってきませんでした。そして、二年の夏を迎えるのです。

二年の夏と言うと、小生にとって最後の夏の大会です。そうです、小生は、奈良で一年高校生活を送っているからです。

そんな最後の大会も、ベンチに入るのが精一杯でした。

投手としても、中途半端なスピードとノーコン病で、決してプロにスカウトされるようなレベルではありませんでした。

また、バッターとしてもまだ、奈良のT高校でのバッティング改造によるタイミングが、上手くとれていませんでした。

すべてにおいて中途半端な状態では、しょうがありませんでした。

ところで、そんな小生の母校は、福岡でも優勝候補にも名が上がるほどで、前評判もなかなかでした。

エースは、小柄ながらも140キロを優に超す超速球派で、素晴らしいカーブも兼ね備えていました。

打つ方も、なかなかの好打者ぞろいでしたから、優勝候補として名が上がるのも当たり前です。

そんなチームが、あろうことかなんと二回戦であっさり0対1の完封負けを喫するのです。

もちろん小生の出番は、ありませんでした。

何とも、最後の夏をあっけなく終えてしまったのです。

教訓 高校野球に、無駄な時間など一日もない!

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野球の恩人

それからというもの、野球部の練習をサボりはしなかったのですが、なんとなく練習していたようです。というのも、はっきりした記憶がないのです。

ショウガナイからやっていたようなものです。学校の勉強の方も、成績がどんどん落ちて行きました。

かといって野球部を辞めるわけにもいきません。

そんな状態が、一年ぐらい続きました。

そして、高校二年になった頃だったと思います。監督が変わったのです。

と言っても、監督と部長先生が交替しただけですが、小生にとっては、この監督交代が、また野球への情熱を甦らせてくれたのです。

ほとんど使ってもらえなかった前の監督への不信感から、全くやる気を失っていた小生に、練習の時から、熱心にやる気を起こさせるように、働きかけてくれました。

どういうことかと言うと、ピッチング練習の時などは、小生の後ろで一球一球声を掛けてくれたり、気分転換にサードを守らせてくれたり、バッティングの時も声をかけてくれました。

今思うと、監督が変わっていなければ、当然、プロの道も開かれていなかったでしょうし、何より、補欠のままで、高校野球を止めていたと思います。

監督から、何を教えてもらったということはないのですが、本当に感謝しています。

そうは言っても、監督が変わったからと言って、急には、上手くは行きません。だってこの一年全く気の入った練習をしなかったのですから。

教訓 人生、やる気がすべて!

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招待試合

その年の選抜に出場した奈良のT高校が、あろうことか、5月の招待試合で、九州に来たのです。その試合を野球部として、みんなで観戦に行ったのですが、ここで小生にとって決定的な、罰が当たるのです。

T商業の監督は、この当時、県の高野連で役職に就いていましたから、この試合も、もちろん役員室で見ていました。

そして試合が終わって、監督が小生を呼びに来たのです。監督は、小生を連れて、T高校のベンチに連れて行ったのです。もちろんつい3か月前までのチームメイトですから、よく知った面々です。逃げ帰った小生としては、あまり会いたくなかったのですが、それでも、同じ釜の飯を食べた仲間たちとの再会を喜びました。

その時です。「また野球始めたんだって」と小生が、野球部に入ったことは、もう監督が、喋っていたのです。

何を言いたいかと言うと、奈良のT高校での小生の不甲斐ない行動は、すべてこの時に、監督に筒抜けになってしまったのです。

ホームシックになったこと、脱走したことなど小生の気の弱さ、根性のなさなどです。

もともとT商業の監督は、力の差は練習で補うような、根っからの精神野球推奨者で、気持で野球するタイプなのです。

これを機に、小生は、はっきり見切られたのを感じましたし、使ってもらえませんでした。

だからどうだということはないのです、元はと言えば、自分が撒いた種ですから。しかし、そしたら『野球部に誘うなよ』という気持ちでした。

教訓 狂った歯車は、なかなか元には戻らない!

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野球部入部

野球部入部は、本当に気乗りのしない第二の高校生活の始まりになりました。

だって放課後、またキツイ練習が毎日毎日待っているんですから。というのは、このT商業高校も甲子園を狙える位置にあるチームなのです。

練習も他のクラブとは、当然力の入れようが違います。もちろん休みなんかありません。奈良の高校と違うのは、寮ではなく、毎日家に帰れることぐらいです。

こうして、また野球漬けの日々が始まりました。

それでも、最初の方はまだ良かったのです。奈良のT高校のセレクションに合格して行きましたから、みんなの目も、一目置いてくれていました。

監督も投手として随分期待してくれていましたから、「春の大会から、投げてもらうよ」と言ってくれていました。

しかし、奈良のT高校の一日目で、小生は投手を諦めてからこの方、一回としてピッチング練習はもとより、投手の練習は、やっていません。初めの何日かは、そりゃボールは走りますよ、肩が軽くてショウガナイのですから。しかし、一週間も経てば、肩は張って来るから、スピードは落ちるし、コントロールも定まりません。

今度は、バッティングです。

こちらは、奈良の高校で修正していたタイミングの取り方がまだ完全では、ありませんから、打てるわけもありません。

こうして、小生の化けの皮は、あっという間に剥がれてしまったのです。

でも、監督さんは、中学時代から目をかけてくれていましたから、小生の素材は認めてくれていたと思います。だから「時間をかけて、作っていけばいい」と言ってくれていました。でも、小生に決定的な罰が当たるのです。

教訓 化けの皮は、必ず剥がれる!

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T商業入学

ぶっつけ本番で臨んだT商業高校の入学試験でしたが、目出度く合格しました。

実家の八百屋を将来引き継ぐためにも、いい選択だったと思いましたし、両親も喜んでくれました。

しかし、この合格には、とんでもない裏があったのです。

それは、後で聞いた話ですが、小生の受験を知って、野球部の監督が、手心を加えていたというのです。

そんな事とは夢にも思わない小生は、入学したら、もともと好きだったバレー部でも入って、ノンビリやろうと思ってました。

それが、いきなり野球部の監督からの呼び出しです。奈良の高校に進まなかったら、もともとこの高校の野球部に入っていたはずだったのですが、野球が嫌で奈良の高校を辞めたのですから、もちろん野球などやるつもりはありません。

それに、あろうことか、両親まで野球部入部を勧めるのです。

しかし、小生は楽な高校生活を望んでいましたし、そして何より、両親のために、八百屋の手伝いもしなければと思っていましたから、頑なに入部を拒否しました。

それでも、何回か監督から電話がかかるのです。

やはり最後は、母でした。「八百屋の手伝いなんか、逃げ口上でしょう。野球から逃げてどうするの、誘ってくれるうちが花だよ、もう一回やってみなさい」自分の心を見透かしたような母の一言でした。

でも、この言葉がなければ、小生と野球の縁はここで切れていたでしょう。

そして、プロ野球の夢も!

教訓 逃げようと思えば思うほど、相手は追って来る!

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これからの進路

高校生活にオサラバして、九州に帰ったのはいいのですが、これからのことは全く考えてもいませんでした。

自分で高校を辞めたのですから、もう一度行き直すという選択は小生にはもちろんありません。それで、まず考えたことは、八百屋を継ぐということでした。

とは言っても、このまま八百屋になるのもと考え、両親に定時制の高校に行きながら八百屋を手伝いたいと言ったのです。

父親は満更でもなかったのですが、母親は大反対です。

前にも書きましたが、小生の両親は、どちらも貧しい家庭で育っていましたから、中学しか出れなかったのです。それで、小生は小さい時から、大学までとよく言われていたぐらいです。

そう云う母の願いもあって全日の高校を目指すことになったのです。そうは言っても、退学したのが、1月の終わりです。新しい高校と言っても、受験をしなければいけません。まして、野球で試験を免除とまではいかなくても、下駄をはかせてくれれば別ですが、この一年は、野球漬けの毎日で、ほとんど勉強という勉強はやっていません、正直、受験して通る高校はかなり下のランクでした。

それで中学時代の担任に相談したのですが、去年の実力だと大丈夫な高校をいくつか挙げてもらいました。その中に国立高専と、元々行こうと思っていた、T商業高校がありました。それでこの二校を受験することに決めました。

国立高専の方は、全く受験勉強をしないまま、受けたのですが、案の定、お陀仏でした。

それで、もうT商業高校しか選択肢がなくなったのです。

教訓 親は決して子供を見捨てない!

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退学

小生が寮から逃げ出したのを知っていたのは、親友のAだけでした。

その日、京都から新幹線に乗って九州に戻ろうとしたのですが、もしAが喋ったら、京都駅で捕獲されるんではないかと心配で、船で帰ることにしたのです。

大阪に出て、神戸からフェリーで九州に向かいました。

神戸から船に乗るとき、家に電話しました、もちろん、母は、奈良に戻りなさいの一点張りです。でも父は、とりあえず帰ってきなさいと言ってくれました。

それと中学時代の親友にも電話をしました。親友二人は、小倉のフェリー乗り場まで学校を休んで迎えに来てくれてました。持つべきものは友です。ケツを割って逃げ出してきた情けない男を迎えてくれるんですから。

家に帰って、両親と話し合いました、それこそ毎日毎日。どうしても戻ってほしい母と、一回言い出したら聞かない根性無しの小生と、どこまでも話は平行線でした。父はと言うと、もう諦めていました。元々父は、小生に八百屋を継いでほしいと内心思っていたからです。

そして一月の終わりでした、ついに退学という形で、T高校を後にしたのです。

学校と寮にあいさつした後、T高校の話を持ってきてくれた叔父さんは、小生に「いろんな方の力があってこの学校に進学できた、それをお前裏切ったんだぞ」この言葉はこたえました。そしてリアカーを借りてきて、寮にあった荷物を駅まで自分の力で運べと言われました。恥をかきなさいと言うんです。2キロある道のりを人の目にさらされながら、小生はリヤカーを引きました。

内心は、もうこれで野球なんかやらなくていいんだとホッとしていたように思います。

教訓 人に迷惑かけたら、そのツケは必ず来る!

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脱走

この牛乳事件をさかえに小生は、高校を辞めることを考え出したのです。

また、この頃、親戚の従兄から、小生の父が郵便局でお金を借りていたと聞いていました。

確かに、学費から寮費は、うちの家計では賄い切れなかったのです。でもそれは、この高校に入る時からある程度わかってはいたのですが・・・。

そして、年も暮れ、正月休みを迎えるのです。

12月30日九州に帰省し、明けて4日までの束の間の休みでした。その数日間、家族水入らずで過ごす正月は、格別でした。

予定どおり奈良には戻ったのですが、久しぶりの家族との再会で里ごころがついたのは事実です。

そして次の日から、何事も変わらないまた冬の練習が再開されました。

しかし、小生の心は、もう決まっていたのかもしれません。

寮でもっとも中の良かった、同じ日にセレクションを受けたAに相談を持ちかけたのです。彼は、もう甲子園に出ることなど眼中になく、高校を卒業できればいいじゃないかと小生を止めてくれたのです。でもそんな彼は、二年後甲子園のマウンドに上がるんです、運命は本当にわかりません。

そして忘れもしない1月の6日、練習終りで自転車で奈良駅に向かって脱走をするのです。Aは、小生を止めるため、ずっと追いかけてきましたが、途中で諦めたみたいです。

でも、脱走の本当のところは、家の経済的なことではなかったと思います。この環境で野球をやっていく自信を失っていたのだと思います。

大きな大きな三度目のケツ割りでした。

教訓 たかが二年半の辛抱じゃないか!

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牛乳事件

冬の練習真っ只中、小生の進路を変える事件が起きました。

子供のころから、全く牛乳嫌いだったのですが、この冬の練習が始まる頃、母が、仕送りに上乗せして、牛乳代を送ってくれるようになっていたのです。栄養のことを考えてのことだったんでしょうが。

牛乳は、寮にある冷蔵庫に届けられているのですが、ある日、三年生が小